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[コメント] 日本沈没(2006/日)

俺たちの真嗣、俺たちの『日本沈没』。
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







73年版において最もドラマティックだった台詞――

「何もせん方がええ?」

この台詞を丹波演じる日本国総理大臣が言うことが、どうしてあんなにドラマティックだったのか?逆に、今回、石坂演じる総理が同じ台詞を言った際、どうして何の感慨も無かったのか?

73年版、茶室での密会シーンにおいて、総理は、上記台詞を、渡老人から“思わぬこと”として“聞かされる”立場でそこにいた。“1億一千万”を一手に委ねられ、どうしたらいいのかと休む間もなく奔走していた合間に、ふと上記台詞を聞かされたときの無情――台詞の内容以上に、この残酷なシチュエーションこそがドラマだった。ところが、今回の映画で、同様の台詞が発せられたシーンを考えてみて欲しい。

まず場所は何やら小奇麗な成田のホテル(?)の一室。台詞を発する者:総理、台詞を受け止める者:環境大臣(大地真央)。まず、場面が、総理が上記台詞を聞かされる瞬間では無いと言うのが一点。ただし、今回、総理は早々に役割を終え、73年版において総理が担っていた役割は、環境大臣に引き継がれる。だから、この台詞を受け止める者は、彼女でも良く、ある意味、73年版と同じだ。

しかし、この台詞を聞かされた時、彼女はまだ“1億云千万”を委ねられた立場には無かった。だから、聞かされた際の彼女の無情は、73年版において総理が聞かされた瞬間と同じようには、観客に伝わってこない。或いは、今回、石坂総理はこの「何もしない方がいいのか?」という問いを彼女に投げかけておきながら、その場で、しかも自分で即答してしまう。その台詞がなんと白々しく聞こえたことか。

真央環境大臣にかつての丹波総理に比肩するドラマを持たせんとするのであれば、答えは石坂総理に言わせるべきではなかった。石坂総理は、「私はどうしていいのか解らなくなってしまった……」と呟きながら、そのまま飛び立ち、くたばれば良かったのである。そして、「何もしない方がいいのか?」という問いを宿題として持ち帰っていた真央は、総理が死んだの知って、答えを出すのだ。「私は……総理、あなたが見捨てた1億一千万を、一億が駄目なら1万でもいい!1万が駄目なら千人でもいい!いや一人だっていい!……救ってみせます!」と。そのように彼女が周りともっと激しく葛藤し、もっと痛々しく孤立するのを見せられて、初めて、我々は、なお戦おうとする彼女の『日本沈没阻止大作戦』に乗っかれたのでは無かったか。

内容の問題ではない、作劇の問題なのだ。今回のシナリオは、上記のシークエンスに集約される欠点をいくらでも抱えている。だから感動に至らない。そして、今回、上映後に本当に忸怩たる思いだったのは、監督樋口真嗣が、これらの欠陥に気づけていないと感じられてしまったからだ。『ローレライ』の折は、まだ原作のせいにできたのだ。映画の原作発注されておきながら、四巻も書きやがって、ウチのシンジを潰す気か!などと責任転嫁できたが、今回はもうそういうわけにはいかない。監督責任だよ、これは!

ただ、そうかと言って、内容というか、根本理念に関してまで、自分はこの映画の敵ではない。我々の時代には、我々の時代の日本沈没があってもいいはずだ。

たとえば、今回の小野寺、人間力に溢れた藤岡小野寺とは正反対の脆弱ぶりで、最後の最後になるまで、己の保身に駆られ、何もしやしない、実に苛立たしい男である。しかし、その草薙ぶりは実に我々のそれではないか。国に、民族にこだわることに違和感があり、他人のために犠牲になることに現実感を持てない――我々の時代の『日本沈没』なら、確かにそこから始めなければならなかった。そこから始め、本当に直前までボウフラのごとくフラフラさせただけだったのは、ある意味立派なキャラ設定だと思った。

或いは、柴崎に「抱いて」と言われて抱かなかったのは、自分も最初はイラッと来た、男じゃねえと思ったんだが、しかし、いや、そうとも言いきれんだろうとの指摘を受けて、考え直した。本当に女の将来を考えるならその体に自分の痕跡は残さない、それは美徳ではないか、と。たとえば、(賛否を呼んでいる沈没阻止も含めて)これらが作家樋口の作家性であり、主張だったとすれば、それは愛すべきものと思えた。

最後に特撮に関して。特技監督は樋口真嗣ではない、神谷誠である。『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』において、平成ガメラのパノラミックな特撮とはまた一味違った、肉弾的な特撮を見せてくれ、『亡国のイージス』などのピンポイントでは強い印象を残せなかった人である。今回の印象は『ゴジラ』よりも『亡国のイージス』のそれに近かった気がする。より実物らしく見えるようになっても、破壊の質感は伴わない。

総じて特撮そのものも革命を起こせていないし、本編演出に特撮を生かす決定的な何かが欠けている。それは、本多監督や金子監督が、敢えて評価もされないぐらい、当たり前に見せていた演出技術だ。一番興奮した特撮シーンは親子の疎開登山だった。やはりカタストロフは人間の真ん前で起きてなんぼだ。実際は誰がどこをやっていたのかまで調べていないので至極いい加減な推測だが、ここは樋口が主導権握ってやったんじゃないだろうか。ただ、これを東京のど真ん中でやったのが73年版だ。

(評価:★3)

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