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[コメント] 生きる(1952/日)

死せる健常者よりも生けるミイラへ…Happy birthday to you.
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







狙い過ぎで、青臭く見えるほどの前半部の演出に対し今の観客は猜疑心を抱くかもしれないが、その猜疑心に対する中盤の返答は「狙いが正しければ、狙って何が悪いのか?」という真正面からのカウンターである。お先真っ暗となった渡辺課長の放蕩が開き直らんばかりの一本調子で余すところなく描破されるも、これがトヨ(小田切みき)と逢瀬を重ねる辺りから俄然熱を帯びる。

二人のコントラストは方々で言われているところと思うが、食事の瞬間が特に凄まじい。食えない渡辺がこれでもかとトヨに食わせようとする、恥じらいもなく頂戴する彼女を、また渡辺が臆面もなく見つめる。この枯れる寸前の花が喜んで自らの養分を盛りの花に与え続ける異常な生命活動は、盛りの花の飽和状態まで続けられるが、そこでついに悲鳴が上がる。

渡辺が縁切りを代償として求める答えをトヨから搾り取るシーンの凄まじさ。社会と生活の板挟みに圧死させられていた押し花が、女学生の誕生会という咲き誇る大輪の華に囲まれ、第二の生命を獲得する瞬間、割れんばかりの『Happy birthday to you』が彼の背中に降り注ぐ。同じ光を正面から浴びる誕生会のうら若き主役とすれちがいながら。その時の渡辺を見送るトヨの視線が忘れがたい。世界は常に悲劇と喜劇が背中合わせで起きている。どちらも「生きる」という動詞が作用するところの最たる名詞だ。その真実の前で、善意は往々にして無力なのだ。

後半になると、あざといまでの前半の布石がこの上なく活きてくる。そう言えば、前半の極端さは、どこかシェイクスピアの戯曲を思わせる。例えば『ハムレット』は、ハムレットの個人的な復讐が国家の腐敗そのものに対する糾弾に昇華されていくという化学変化を内包していたが、この映画の後半もまさにそれ。個人の死を、単なるお涙頂戴で終わらせず、お役所の動脈硬化という社会問題の中にぶち込んで徹底的に問い詰める。しかし、それは感情の欠落した机上の問いではなく、監督自身の激情の問いだった。甘んじる彼らを問い詰める反面、無力な小市民でしかない者の悲哀を認めないわけにもいかず、のたうち回る激情、それが伝わればこそ、観客はもう防戦一方となりサンドバッグのように打たれるしかなくなる。

ところで、渡辺にしてみれば全ては自分のための行いだった。彼にとっては自分の行いを美談としてもらう必要は何もなく、また彼の行為の美しさは観客に伝わりさえすれば良く、矮小なレベルで言い争う同僚に崇高な想いを理解してもらう必要もなかった。だがこの映画は警官を登場させ、渡辺の心情全てを白日の下に曝してしまう。この辺がいかにも黒澤監督らしい。映画は、結局は変わることが出来ない彼らのありのままを見届けて終わる。葬式の場で反旗を翻そうとした木村(日守新一)も、結局は流れに逆らえなかった。それでも伝えられたことは彼らの心の奥に残ると信じ、黒澤監督は撮りきったのだろう。独り渡辺の残した公園を見つめる木村を映し、映画は終わる。

蛇足だが、この映画を映画それ自体のアイデンティティの一つにまで昇華させた、革命的な実践があったとすれば、それは渡辺の台詞だったように思う。例えばシェイクスピアを代表とする演劇の価値を決めるのは、極限までに美しく、雄弁な台詞である。マシンガンの如く放たれながら、流れるように、世界を構築していくのは、まさに言葉、言葉、言葉なのだ。ところが、この映画の台詞ときたら…

「…あの、その…つまり、それは、その…しかし、それは…」

これらの失語的台詞がもたらす停滞と、ディスコミュニケーション、沈黙。しかし、このアンチ演劇とも言える台詞の汚濁が、尋常ならざる勢いで物言わぬ映像の密度を高めていく。物語をして演劇や小説の支配から逸脱させた実践が映画史の中にあったとすれば、まさにこれではなかったか? などと、大それた事まで想起してしまう。

好き嫌い如何に関わらず、通らねばならぬ停車駅の一つと思う。

(評価:★5)

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