[コメント] イージー・ライダー(1969/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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そんな弱者の恐怖は、“それ”を享受している者の疾走を、止めないことには収まりがつかない。止まらない自由と止めずにはいられない不自由。両者の鬩ぎ合いにあって、不自由の欲求は、精神的な強さを肉体的な弱さから叩きのめすという最悪の暴力をもって、醜悪な成就を果たす。そして、強者の自由は弱者の暴力に屈する。いや、自由が屈した相手は、社会そのものだったのだろう。
公開から30年余り。この映画をいまだ切実に感じるのは、いかなる社会もまだ彼らの自由を許容する度量を持ちえていないという証明に他ならない。
その社会は、暴走族なら、非難しながら許容する。何故なら、夜を待っては勇んで着る特攻服を昼には衣文かけに大事にかけておくおままごとの自由は、いくら騒音を撒き散らしたところで、縦割り社会のシステムにしっかりと組み込まれているものだからだ。特攻服も、カラー・ギャングのジャージも、チーマーの地域ごとのファッションも、ヒップ・ホップお決まりのスタイルも、それらは突き詰めれば、社会が提供してくれたユニ・フォームに過ぎない。
イージー・ライダー達の自由は、昼も夜もみすぼらしい自前の革ジャンに身を埋めること。空っ風が吹きぬける荒野で、襟をたてうずくまり眠ること。煌びやかなファッションとも、楽しいだけのお友達関係とも無縁の、お世辞にも羨ましいとは言い難い代物なのだ。だが、それ故に胸を張って自由と自称できる自由なのだ。
そんな彼らの自由が志すところは、唯一つ。くだらない仲間意識でも、目立ちたがり根性でも、噴出するアドレナリンでもない。
ただ、通り過ぎること。
言い換えるなら…
属さないこと。
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