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[コメント] ブラックホーク・ダウン(2001/米)

傲慢な国策と現場の激痛はあくまで別次元の問題だ。だが、前者が後者をプロパガンダに使う以上、この映画を友とすることは出来ない。お前が架空の軍隊を描いた夢物語であったなら、両手で迎えたろうに。涙を呑んで、撃ち殺す。
kiona

 戻りたくない でも 仲間が待ってる 戻ろう あの地獄へ…

 めいいっぱい泣いてやりたい話だった。この軍事介入が、どうしようもない傷口を、どうにもならない生療法で引っかき回し、挙げ句には途中で投げ出したという、最悪の対外政策の一環であったという史実さえなければ。

「相手が撃ってくるまで撃つな。」

(相手に撃たせてから、撃て。)

 俺らと年の変わらぬ米兵たちを襲った最悪の災難は、しかし、突き詰めれば自業自得。ずさんな計画と、兵士としてあるまじき現場をなめきったその姿勢に端を発している。それらは手繰っていけば、兵士たちの責任というよりも、あやふやな外交政策の余波だったという結論に行き着く。つまり国策レベルと現場レベル、二重に自業自得だったのだ。そんな史実をこの映画はどう料理したか?

 演出に抜かりはない。若いアメリカ兵達の悲劇を描ききっていた。だが、描かれたのは彼らだけ、殺された無数の敵方民兵達は押し寄せるエイリアン扱い。

 半分しか描かれていないノン・フィクションをノン・フィクションと呼んでやることは出来ない。それはフィクションでしかない。

 そしてフィクションがノン・フィクションを気取るのは、欺瞞に他ならない。

 また、俳優達の演技も申し分無かった。特にトム・サイズモア、『プライベート・ライアン』、『パール・ハーバー』と来て、下手な時代の本職よりもよっぽど実戦経験豊富になってしまい、その現場を仕切る冷静さたるや、演技とは思えないレベルに達してしまっている。

 だからこそ、問題だ。そう、これは『パール・ハーバー』の様な安心できる愚作ではない。この映画の危険性は、俳優の演技も演出力も一級であったという点にある。一級の力で、半分のみを描けばどうなるか?

 リドリー・スコットは結局のところ、男の友情を描きたかっただけなのだ。彼の映画を観続けた俺には、それがよくわかる。だが、これはそれをやっていい題材ではなかった。

「あの時、ああしていれば、こんな事にはならなかった。」

「今は問うな。生き延びることだけを考えろ。問う時間なんて、後でいくらでもある。」

 我々は、その問う時間にあって、これを見ている。

「現場の真理は、現場にいない者には解らない。」

「何故、戦うのか?」

「仲間のために戦っている。だから、戦う意義は確かにある。」

 美しいが、破綻した論理でしかない。こんな言葉を天の声として、現場を混迷させた背景を隠蔽することなど出来はしない。

 或いは劇中に行われる、現場の兵士達による悲惨極まる生手術が、この史実を象徴していたのかもしれない。だが、それは結果論に過ぎない。

 リドリー・スコットは美学を押し付け、問いを隠蔽しようとした。現場のバーチャル体感マシーンとしてのアイデンティティを強調するつもりだろうが、それはもう『プライベート・ライアン』が果たしてしまった役割だ。この映画の言い訳にはならない。そう、この映画は最初から問いを回避できる条件になかった。

 彼らは何故あの地獄を見なければならなかったのか?

 彼らは何故あの地獄に送り込まれなければならなかったのか?

 彼らを何故送り込んだのか?

 彼らを何故中途半端で撤退させたのか?

 地獄をさらに引っ掻き回した大罪、虐殺される人々を中途半端な介入の言い訳にする欺瞞。生まれいずる問いが無限である以上は、それら全てを扱えとは言わない。だが、何故たった一つの問いをも回避した?いかに世の風潮が風潮とはいえ、メガホンを撮るなら、それは義務だったはずだ。ただの一つも自ら問うてみせなかった限り、問いを観客に押し付ける権利はない。

 なまじ力作であるだけに、断罪せねばならないのが残念でならない。

(評価:★1)

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