★3 | フライトプラン(2005/米) | 旅客飛行機の中は案外ひろい。限定され、かつ区画された空間をきちんと活かしてサスペンスを造る。ネタ振りの前半部も微妙なリードとミスリードを画面にきちんと示す。何気に、密室化された人間集団の動向を左右する「空気」の不穏、その社会学映画でもある。ここまで律儀にもりこんで実質90分。面白かった。〔3.5〕 | [投票(1)] |
★4 | 復讐は俺に任せろ(1953/米) | 言わば何事も“いきなり”というスタンスで一貫している。もって回った段取りもないままカットがかわり現シーンが始まると前シーンの要件はクリアされている。あるいは観客の不意を突くように何かが起こる(だが不意と言ってもなんとも言えぬ予兆が微妙に画面をかすめているのも、やはり実直に映画らしい映画)。 | [投票(2)] |
★2 | 東京公園(2011/日) | 一人二役井川遥を即座に瓜二つと断定しない、倒錯的なまでの無感ぶり。その逃避的な歪さゆえに物語はいつまでたっても始まらない。唯一艶めく場面でも、やはり主人公の顔は見えないまま。ぜんぜん正面切ってない。わからない。風の揺れ、海の白波、などはなんとなくのこった。 | [投票(1)] |
★4 | 怒りの河(1952/米) | 山越えを見続けて、つくづく「西部の馬車(?)って丈夫!」と思わされる。また船という巨大な移動装置の映画性(桟橋から離れていく船縁)。ジェームズ・スチュワートの善人なだけでない、秘めたる力を飽くまで間接的に示す演出の妙。空間や時間の制限を有機的に活かしたシナリオが何より綿密。 | [投票] |
★4 | OK牧場の決斗(1957/米) | トータルにハイレベルなウェスタン…に思える。どことなくイメージのダブるバート・ランカスターとカーク・ダグラスの相棒関係の妙。べたつき過ぎない男女関係の綾。決闘は飽くまで私闘とするアメリカ人的モラル。勿論青い空と黄色い大地。何気に小奇麗な女性の服飾や調度品。ついでに、何度も出てくる道標。 | [投票] |
★3 | 東京マダムと大阪夫人(1953/日) | 高橋貞二や北原三枝のぶっきら棒なキャラがアクセントとして映画を活気づかせるし、ちょうど対称らしい同じ様な間取りの家の主婦二人が、どうも同じ様な顔つきに見える月丘夢路と水原真知子が演じているのも面白い。あと、サラリーマンが蝶ネクタイってのは、なんなのか。 | [投票] |
★4 | めし(1951/日) | 最初に見て辛うじて記憶に残っていたのは、小さな階段の段差があるその小さな路地(袋小路)だった。小津にせよ溝口にせよ成瀬にせよ、その時代の映画にあって現在の映画には決定的にない映画的な舞台は、この「路地」ではないか。原節子の表情の豊かさ、島崎雪子のコケティッシュ、上原謙の憎めなさ。 | [投票(4)] |
★3 | マリー・アントワネットに別れをつげて(2012/仏=スペイン) | 王妃の朗読係の肩越しに垣間見られる裏面史。遠くから響いてくる地鳴りの如きものとしての革命、歴史。明言出来ぬ自身の心の言葉を受け身の口づけを通して聞く。レア・セイドゥーの両の眼はいつも低温で、見つめる目であると同時に見つめられ(う)る目でもある。〔3.5〕 | [投票(1)] |
★3 | 抱きしめたい 真実の物語(2013/日) | 感覚的に言えば、ファーストショットに入るタイミングからして、「スタート!」の声(?)で始まってない。“途中”から始まってる。そういう運動神経の良さを前半は全般に感じるが、DVD映像のところでそれが明らかに停滞し、その後復調することはなかった。 [review] | [投票(2)] |
★4 | 傷だらけの挽歌(1971/米) | 誰彼隔てない撃たれっぷりのいさぎよさは、多分撃ちっぷりのいさぎよさに呼応している。一見悲劇的なハナシを喜劇的とさえ言える距離感で突き放す。しかし決して誰も能面ぶってもいない(誰もやり過ぎな程汗ばんでいる)。「痛み」とは肉体への物理的衝撃だということを知っている。 | [投票(2)] |
★3 | 好男好女(1995/日=台湾) | 現在、現在の中の過去、劇中劇としての過去。三つの時制がとくにタイトル挿入などの断りもなく、混交する。それだけでもよくやると思う。ホウ・シャオシェンは基本的に何かを待ち続けているのかな、と思う。リュミエール映画の態度のように、画面に何かがよぎる瞬間が来るのを。 | [投票(1)] |
★3 | 王子と乞食(1977/英) | 王の王たる、貴人の貴人たるを示されることがどうしてそんなに感動的なのか判らんが、落ちぶれ剣士や乞食の少年が、王子の示したそれを認める瞬間が光る(でも何を示したのか)。剣と剣、あるいは体全体を使った肉弾戦にごまかしを感じないのもいい。なんだかアクションが地に足着いている。 | [投票] |
★3 | 憂鬱な楽園(1996/台湾) | 生理的に快感でしかありえない移動するキャメラの視点は、特徴的に、「繋ぐ」為にだけある。シーンとシーンが繋がる(切れる)瞬間が見ているその時でさえ記憶に残らないのは、タイミングが演出の計算の内に入っていないから(だろう)。ガタピシ、ちぐはぐ、その通り。でもこれはこれでも映画に見えてしまう。 | [投票] |
★3 | モロッコ(1930/米) | 軍楽隊の太鼓のマーチが遠くから聴こえて来て、そしてまた遠くへと消え去っていく映画。トーキー初期ってことで、音響効果に過分に意識的だったのかも知れない。風が吹かないな、と漠然と思っていたら、ラストシーンでこそ「パタパタヒュルル」と吹きすさんだ。 | [投票] |
★4 | 元禄忠臣蔵・後編(1942/日) | 何気なく台詞を語る役者から他の台詞を語る役者へと橋渡し的にパンする画面、その狭間にはとくに何も映すべきものも映っていないが、極論としてはそこにこそ映画があるような感覚もしてしまう。ファントム・ライド的表象とは似て非なる、物語や世界の実在性を担保するモノ。 | [投票(1)] |
★4 | 元禄忠臣蔵・前編(1941/日) | 映画の画面にも天と地、手前と奥行き、上手と下手といった演出的な空間性があるということは、たんに約束事としてだけでなく、それが重力の束縛を受けた人間達や事物を被写体にしているという現実にこそ基礎を置いていたのかも知れない、なんて思わされる画面が続く。 | [投票(1)] |
★3 | 太平洋作戦(1951/米) | 「君が泣き虫でなくてよかった」と夫に言わせつつ、妻の隠した涙を幼い息子の言葉に託す。隠すことで示すモラル。物語には劇的な起伏もないが、この時代は観客に普通に軍隊経験があるので、軍隊生活を描くだけでも素朴な共感を得られたのかも。記録映像込みの空戦シーンは細かくカットを割らざるを得ず、いまいちつながってない。 | [投票] |
★3 | てぃだかんかん〜海とサンゴと小さな奇跡〜(2010/日) | たぶん素直に綴れば苦労話のメロドラマになりがちなところを、一見浮いたような沖縄言葉の平坦なイントネーションや何かと言えば殴りつけるお決まりの身振り、あるいはシーンつなぎの意匠等でもってしめらさないで最後までもっていく。家族の支えの言葉に接して主人公は走りだしたり飛び込んだり、体で反応するのも何故か泣ける。 | [投票] |
★4 | フレンチ・カンカン(1955/仏) | 「豊」かな「色」と書いて「つや」と読む。ジャンはオーギュストの息子、ということを実感させられるつやつやした色彩映画。映画の服飾というのは役者の第二の皮膚なのかと思わせられる肌理。女達の脚、脚、脚が造花のようなひだひだのスカートの中で元気よく跳ねまわる。色で光を感じる。 | [投票(3)] |
★3 | ゼロ・グラビティ(2013/米) | 中空を肌着で漂うサンドラ・ブロックを見て、『エイリアン』のシガニー・ウィーバーを思い出す。生きている、生きている、生きている、宇宙船という胎の中で、生きている。肌身をさらして、(肉体の)起伏を見せて、それではじめて辛うじて映画が成立する。寓意としての魂=露呈性。 | [投票(4)] |