[コメント] WALL・E ウォーリー(2008/米)
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云うまでもなくピクサー・ステューディオは今までも玩具や昆虫や魚類など人間ならざるものを主人公に据えて物語を語ってきたわけだが、彼らはみな完全な(=人間と変わりのない)「顔面」と「言語」を持っており、その意味で擬人化演出の方法論としてはミッキー・マウスの昔から基本的な変化はなかった。そこでアンドリュー・スタントンは喝破する。「映画における感情表現の要は『目』と『手』である。それだけあればよいのだ」と。むろん、たとえばウォーリーは恐怖に「身をすくめ」「からだを震わせる」など身体全体を使った仕方で感情をあらわにするし、言葉もまた完全に捨て去られているわけではない。しかしながら、キャラクタの感情を担っている中心はやはり彼らの目であり、手である。終盤における、地球に帰還はしたが記憶は失ったままのウォーリーのその空虚な目。事務的/機械的に作業を遂行する手。私たちはその目が、手が、今までどれほど豊かに感情を表現していたかを知っているからこそ、そこでの目と手の無感情に心を引き裂かれる。
細部のよさについて書き連ねようとすれば際限がないだろう。バベルの塔のごとく積み上げられたスクラップ群。イヴが引き起こす馬鹿げた破壊のスペクタクル。宇宙空間の造型も比類ない。これほど感動的に「消火器」を使ってみせた映画は他にないだろう。制作者集団としてのピクサーは小道具がいかに映画を輝かせるかをよく知っている。あるいは前半の地球上のシーン、植物を収容したイヴは動作を停止してしまう。ウォーリーは彼女に色とりどりの電球を巻きつけて連れ回す、雨が降れば傘を差してあげる。なんといびつで正統なロマンス!
ところで、昨今のアメリカ映画の流行のひとつとして、終末的状況の舞台設定というものが挙げられるだろう。流行というよりもはや伝統と云ったほうが適当かもしれないが、ともかくここではそれを物語の出発点にしているのだが、そうでありながらこれほど明確で楽天的なハッピー・エンディングを迎えることに、私は今さらながら「アメリカ映画」の強さを見る思いだ(運動と自発性を放棄し醜く肥えた人々は、しかし「究極の平和ボケ」とでも呼ぶべき状態がもたらした人のよさ・無垢を誇っている。公平に云って、一面でそれは確かに希望でもある)。もちろん「合衆国」はあくまでも世界金融危機が決定的局面に突入する以前の映画としてこれを受容しているのかもしれない。しかし「手をつなぐ」というただそれだけのことの幸福と奇跡をこうまで拡大して描きえたこの野蛮に強靭な楽天性が、そう簡単に動揺してしまうとも私には思えない。
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