[コメント] 許されざる者(1992/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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●クリント・イーストウッドが言うには、『許されざる者』は‘最後の西部劇’であるという。ならば、しかし、イーストウッドは「何を終わらせたのか?」。
死刑の1つである銃殺刑が執行される場合、受刑者は目隠しをされる。なぜか。それは、殺される側の恐怖を消すためではない。逆である。殺す側の恐怖を消すために受刑者(他者)の視線は隠される。
ウィリアム・マニー(クリント・イーストウッド)は女・子供とて容赦ない殺人鬼であった。しかし、彼には恐怖がなかったのだろうか。人を殺すということが恐ろしくなかったのだろうか。後の会話からマニーは人を殺すときにはいつも酒を飲んでいたと明かす。つまり、ある程度の恐怖があったとみなすのが妥当だろう。だが、酒を飲んだくらいで人は人を殺せてしまうだろうか。このマニーの言葉に逆に驚くべきなのは、酒を飲んだくらいで人を殺せてしまえるということなのではないか。つまり、マニーがアルコールによって消そうとしたのは、殺す相手への恐怖ではなく、人を殺すことができてしまう自分自身への恐怖なのだ。自分という怪物への恐怖。マニーは人を殺してしまえる自分に恐怖した。妻と子供との11年間の生活によって、彼は‘普通の人間’になったように思えた。しかしながら、結局、彼は変わってはいなかった。ネッド(モーガン・フリーマン)は人を殺すことができなくなっていた。キッド(リチャード・ハリス)はもう人を殺すことができないという。しかし、マニーには殺せてしまうのだ。
<人を殺してはならない>理由などどこにもない。たとえそれが正義であろうと悪であろうとも。むしろ「人を殺してはならない理由がないからこそ法律があるのだ」(『ワールド・イズ・マイン』)というべきだろう。しかし、<人を殺してはならない>理由がないからといって、わたしたちは人を殺すだろうか。大部分は殺さないだろう。いや、殺せないだろう。理由うんぬんの問題ではなく、わたしたちは人を殺せないのだ。人であるがゆえに・・・。つまり、マニーは、人ではない何者か(怪物)が自分の中にあることへ恐怖したのだ。
クリント・イーストウッドが『許されざる者』を‘最後の西部劇’とみなしたのは、要するに、他者(インディアン/ガンマン/保安官)を殺すことの快楽によって成立していた西部劇の、その前提である殺すことそのものを疑い瓦解させてしまったからなのだろう。人を殺すことを疑ってしまった西部劇。そんな西部劇に未来があるだろうか・・・・・・。なぜなら、人を殺さない西部劇など成立するはずなどないのだから。だとすれば、『許されざる者』以後の西部劇は、サム・ライミのように『許されざる者』をなかったことにして殺しまくる(『クイック&デッド』)か、人を殺さない西部劇を作るしかない。後者をおもしろがるやつなどいないだろうが・・・。(そしてイーストウッドはそれを痛いほどわかっているからこそ‘最後の西部劇’なのだ)。
だから、あの『許されざる者』のラストはハッピーエンドではない。たとえあれがハッピーエンドなのだとしても、最初から「ハッピーエンドとは最悪の結末」に他ならない。一体何が幸せだというのか。マニーにとって、もはや生きることそのものが苦痛であるのに・・・・・・。いや、それがどんなに苦痛なのだとしても、それでもなおマニーは生きつづなければならなかったということ。クリント・イーストウッドはその答えまでは用意しなかった。いや、そんなものは最初からないのだから!
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