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disjunctiveさんのコメント: 更新順

★4コーラスライン(1985/米)作劇の必要上から、情実を資源にして感情を訴求する権利と技量を誤接続していて、しかもそこに自覚的であるがゆえに、作劇の政治学に身を売ってしまったという背徳感が見受けられる。若者たちにはその揺り戻しに翻弄されている感がある。[投票]
★4酒とバラの日々(1962/米)執着と節度が境をなくす界面において、人間は素面でありながら意識を失うという恵み深いアトラクションを体験する。アルコールに泰然として身を任せた興行は、公共広告機構の君臨する宇宙を安らかなるものにしてくれる。[投票]
★4追いつめられて(1987/米)儀礼的に持ちこたえていたハックマンの庶民性が運命に逆行しようとするとき、あるいは、われわれの加担するゲームが庶民の名のない実践に帰着するとき、庶民主義が詩意を以て人の美しさを語っている。それをここではよろこびたい。[投票]
★4四月物語(1998/日)末梢的な人生を迎えるにあたって、遁辞を弄するには野趣深いたか子の顔面は、しかし、その野太さゆえに、想像力の天蓋の下で少女マンガの必然と自由を謳歌する。[投票(2)]
★4ミニミニ大作戦(1969/英)好意が罰せられるという平和への希求が、作劇のラテン的好意に何か針で刺すような苦痛を伴わせるような気が。[投票]
★4プラダを着た悪魔(2006/米)やりがい搾取を穏当に肯んずるため、心の痛みを受容する力は豊かさを増す。それを女の万能感だと錯視させるほどに。自我を託すべきわれわれの面影が、運転手という神の見えざる身体にまで、圧搾されるほどに。[投票]
★3テレフォン(1977/米)不可侵の決定論(ブロンソンだから)が静穏の教訓として受容されたように見える。老後保障という彼岸から差し込める光の下で、彼は自分という神秘と和解したのだ。[投票]
★4暗殺の森(1970/伊=仏=独)即席ではないと発動しない政治的シニシズムは、セクハラの概念がないという架空戦記性の偶然に身を託した。その一方で、偶然を排したい作劇の欲望は、モラルの展望に欠ける世界に清らかな思い出がもたらされる時を待ち続けている。[投票]
★4特攻サンダーボルト作戦(1977/米)すでに未来が知られている倒叙において、未来が先行するからこそ、物語の現実がそこに追いつかないという苦しみが生じている。ブロンソンはすでに放たれた。しかしその力を開放すべきか、政策判断の均衡するタイミングは遅延し続ける。えらい。 [投票]
★4トラック野郎・男一匹桃次郎(1977/日)EUREKA』や『黄泉がえり』なみに気の狂った九州の地理感覚にも臆せず、文太は知的縮退と漂流の物語をあきらめようとしない。意気地という爆走する自我が、脱線形的な風景の断面に沿って折りたたまれたマドンナの自意識の痕跡を発見するのだ。[投票]
★3ぼくを葬〈おく〉る(2005/仏)当事者性を、社会に対して申し開きをする責任を割り引く資源として当てにしすぎるあまり、不幸の著しいカジュアル化が引き起こされている。フィクションを以て責任を引き受けたいのであれば作劇の精緻化が筋ではないか。[投票]
★4三月のライオン(1991/日)動機の童心的な(=イヤらしい)観察と四囲の景物の几帳面な専制との裂溝は政治的なオプションであるが、結果として、景物に対する小心さが、風俗観察を時の風化から保護しているようにも見える。[投票]
★3髪結いの亭主(1990/仏)実体経済に裏打ちされない架空戦記状のロマネスクが、オッサンのヒモ生活という類型に破壊されようとしている。経済の論理文法を当てにできない舞台にあっては、どのようにして、行為のもつ悲壮感を知覚すればよいのか。[投票(1)]
★4ベティ・ブルー/愛と激情の日々(1986/仏)遊牧生活の最後の戦いを痛惜するのではなく、神経疾患を演じるという理性を発見し、人間という幾何学的様相の完成に安堵してしまうのである。ダルのアレは演技でなく地だらう、というドン引きが俗世の知見に癒されてゆく。[投票]
★4アモーレス・ペロス(2000/メキシコ)勧善懲悪も経営シミュレーションも良俗の指令なのだが、これが愛すべき誤謬に襲われ阻却されると、風儀の口やかましさという一人称的表出だけが残存してしまうと思う。 [投票]
★4インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア(1994/米)啓蒙的性格の観察は、未来傾斜への福々しい信頼の実効まで、普遍性ゆえの無時間で抑圧をかける。運動表象が物語に現れた好ましさとは何か。われわれはそこで時を想起している。[投票]
★38人の女たち(2002/仏)典礼を、悲劇を語る権限を奪い合うゲームとして利用したのは、形式主義を以てしか女に接近できない男の記憶イメージである。真実への近しさを自罰からの遊離ととらえるような後ろめたさは、セクシャリティのこうした保護検束に由来するのではないか。[投票]
★4マジェスティック(2001/米)人物の自律性を担保する公準に自信がない。恣意的に造形を帰属させるにつれ、人物を意味ある現象として語り得なくなってしまう。そこで作り手が政治的冒険に情緒を訴える資源を見出すのは、それはそれで作劇の実践なのだろうが、人情がないとも思う。[投票(1)]
★4まぼろし(2001/仏)ほんらい全宇宙のメタボにとっての朗報だったはずだ。しかし、シャーロットの田原総一郎化した頽朽の顔面は、ラストの浜辺のごとく、不幸に対する敬意をあくまで拒絶する愛の遠近感覚でわれわれを苦しめるのである。[投票(1)]
★4裏切りのサーカス(2011/英=仏=独)感情表出への接近を特権ととらえるべきではなく、それは、当事者性を託し合わせる空間分布の冒険談であるべきだ。その中で、オッサンは、オッサン自身の不行跡な心のはたらきの広がりを受け手とともに知ることだろう。[投票]