★3 | 凶悪(2013/日) | 老人の虐待は、褒められたことではないとはいえ、世代間の怨念がある以上、そこに嗜虐心を見出してしまうのは自然な感情である。 [review] | [投票(1)] |
★3 | 悪の法則(2013/米) | 理解を超えるものは、行動を以て表現するしかない。したがって、キャメロンの内面開示がほかのキャラと同様に行われると、かかる俗化で、追われることのスリラーは望むべくもない。むしろ、驚きは転倒した形でやって来る。 [review] | [投票(1)] |
★3 | 日本の黒幕(1979/日) | 降旗にとっては苦手な題材で、もはやネタと割り切って見てしまった。そんな中にあって、田村正和と田中邦衛だけは相性が良かったらしく、ノリノリに撮られている。二人の役者としての資質が近いことがそれでわかってしまう。 [review] | [投票(1)] |
★3 | 忍びの者(1962/日) | 事件を動かしているのはあくまで雄之助で、雷蔵は状況に翻弄される。それをいいことに、雄之助はおふざけが過ぎ、加藤嘉ら脇役組と藤村志保の汎モンゴロイド顔が物語を型にはめる。 | [投票(1)] |
★3 | 愛と哀しみのボレロ(1981/仏) | フランス語圏の受け手以外を想定しないような、ドメスティックな感傷に依存した話に見える。作りの計算高さは、美術に好ましい効果を及ぼしているが、同時に、箱庭感によって感傷が閉塞して、普遍性に至り得ないのではないか。 | [投票(1)] |
★3 | 殺し屋たちの挽歌(1984/英) | 肉体に刻印された行動生態学の宿命と戦うのは、好ましい意気地だ。ジョン・ハートにとっては、それは女性を前にした求愛の無意識の挙動に抗うという形で表現されている。自然へ反逆する課題が、キャラクターへの受け手の好悪の誘導に利用されている。 | [投票(1)] |
★3 | 鴛鴦歌合戦(1939/日) | 冒頭のディック・ミネがよかった。あそこで彼は、人格という見ない現象を、ただ楽曲に応じて挙動することで短時間のうちに表現してしまう。 | [投票(1)] |
★3 | 組織(1973/米) | この試練の緩さや甘さを、ロバート・デュバルの薄毛に対して行われた、格差是正的な措置の表れだとは思わせない人徳が当人にある。特に、救急車で脱出する件とか。語り手の同情というよりも、薄毛性がロバートを救っているという感覚である。 | [投票(1)] |
★3 | 運動靴と赤い金魚(1997/イラン) | 階級の再生産から脱しようとする普遍的な主題を定着させている。庭師の件で、息子に発現した教育の効能を父親がよろこぶところが、その最たるもので、同時に、そうすることで父親は自らの造形的な奥行きを広げている。 [review] | [投票(1)] |
★3 | ディーバ(1981/仏) | 説明のつかないガジェットは無数にあって、そもそも根本から、ディーバなしに成立する話である。それらが存在せる理由を求めて、カメラは虚空をさまよい、かと思えば、カットを割り出してしまう落ち着きのなさで、映像文法がシナリオの提示に戸惑っている。 | [投票(1)] |
★3 | ミッドナイト・エクスプレス(1978/米) | 司法も雑であれば、刑務所の管理体制も雑で、このままだと場当たり的な話にしかならない。何か論理的なことが行われていたという実感をもたらす尽力は認められるものの、構成への意欲は、冤罪感を醸すような、受け手に感傷を駆り立てる試みに堕している。 | [投票(1)] |
★3 | ダラスの熱い日(1973/米) | オッサンらの祝祭のような砂漠の火遊びが、既知の反復へと還元されてゆくこのつらさは何であろうか。語られているのはキャラクターではない。単なる属性の運動なのだ。 | [投票(1)] |
★3 | 眼には眼を(1957/仏=伊) | ストーキングされる不快感を、加害者も自虐することで中和して、ある種のサバイバルの観察を享しめるように作られている。ただ、この中立化は、オリエンタリズムの問題を顕現化させるようでもある。 | [投票(1)] |
★3 | ル・アーヴルの靴みがき(2011/フィンランド=仏=独) | 偶然的様相のアホらしい好ましさは、それが偶然だからこそ、聖なるものになるはずだ。ところが、事件の極限性をあくまで他人に生じさせるこの話の客観性は、かかる偶然に恩寵のしるしを見いだせない。これはむしろ、偶然に急襲されたという感覚に近い。 | [投票(1)] |
★3 | 閉ざされた森(2003/カナダ=米=独) | トラボルタの視点が入ってしまうことが問題で、ミスリーディングとして機能させてはいるのだが、オチを考えれば、これはノックスの十戒に違反してはいないか。 [review] | [投票(1)] |
★3 | のぼうの城(2011/日) | 甲斐姫が動機になっているように見せたいのは理解できる。が、この観点からオチを観測すると、そもそも最初から戦いは不要という結論に至りかねない。 [review] | [投票(1)] |
★3 | アラビアのロレンス(1962/米) | 戦争神経症やセクシャリティの問題など、個人に発現した課題が、民族的憐憫と取り違えられている。あるいは、より意図的に、問題を個人に限定するか、社会経済に拡散させるか、場面に応じて使い分けがなされている。 [review] | [投票(1)] |
★3 | 高地戦(2011/韓国) | キャラクターを記号ではなく、生きた人間として受容させるには、行動や感情を御する体系を匂わせるような挙動を、彼らにさせるべきだ。では、どんな物腰が、それに相当するのか。 [review] | [投票(1)] |
★3 | レベッカ(1940/米) | 女には語りうるに足る生活の実体が設定されていない。女の幸福を願おうにも、その手掛かりがなく、話の興行性は、災難に対する対処療法的な挙動に担われがちだ。 [review] | [投票(1)] |
★3 | ウォルター少年と、夏の休日(2003/米) | 疑似家族も全能感も、少年ではなく、老人の願望充足を想定している。しかし、その全能感のあり方は若々しく、少年の想像力に依拠して、老人の願望を当て推量した結果、欲望の誤配線が生じているように見える。 [review] | [投票(1)] |