宮本信子の映画ファンのコメント
ぽんしゅうのコメント |
ラヂオの時間(1997/日) | こじんまりと、小奇麗にまとまり過ぎ。映画の面白さってこういう事じゃないと思う。 | [投票(1)] | |
マルサの女(1987/日) | 板倉(宮本信子)対権藤 (山崎努)の本筋に、絶妙な間合いでからまる小ネタ脱税エピソードが心地よいリズムとスピードを生みぐいぐい話しに引き込まれる。金に縁のある奴もない奴も楽しめるバブル期屈指の娯楽作。音楽の本多俊之の貢献度は絶大。 | [投票(3)] | |
マルタイの女(1997/日) | ただの我がまま二流女優にしか見えないビワコ(宮本信子)が致命的。中心軸に吸引力がないのだから話は拡散し続ける。北野映画を思わせる伊集院光の猪突アクションと津川雅彦の底なしの虚無(今にして思えば伊丹の苦悩が漂う)が突出していびつに美しい。 | [投票(3)] | |
ときめきに死す(1984/日) | 見ている最中は特有のカメラワークとセリフまわいで、魅力的に見えるのが・・・終わってみると・・・「で、それで?」的な空疎感が残るだけ。この監督は、見栄えを優先すれば、中身は勝手に出来上がると思っているふしがある。典型的森田芳光映画。 | [投票] | |
かぐや姫の物語(2013/日) | かすれ歪み一瞬たりとも定型を構成しない輪郭線は、まさにこの世の無常の具象化。自然の摂理を経てこの世に誕生した生命ではなく、生まれながらにして生をまっとうできない運命の「かぐや姫」もまた無常の象徴。その裏返しとしての現世肯定に涙が止まらなかった。 [review] | [投票(7)] | |
お葬式(1984/日) | 伊丹映画の中で最もバランスのとれた作品。その後、彼は本当は何を撮りたかったのだろうか・・・ [review] | [投票(2)] | |
スーパーの女(1996/日) | リアルといえばそうかも知れないが、あまりにも映画的な夢がなさ過ぎる。宮本さんの気のないベッドシーンはその象徴。寒々しくて見ちゃいられない。 | [投票(4)] | |
キネマの神様(2021/日) | 現代パートの沢田、宮本、寺島の古臭い山田演出の台詞回しにドン引きして困ったなぁと思っていたら、想い出パートで永野芽郁ちゃんが醸す昭和のクラシカルな恥じらいと奥ゆかしさが懐かしも心地よく、頑張って最後まで観ることができました。よかったよかった。 [review] | [投票(3)] | |
日本春歌考(1967/日) | 『新宿泥棒日記』でも言えるのだが、この当時の大島渚の性に対するアプローチや表現はあまりにも観念的であり、抑圧に対する果敢な挑発は充分に理解できるものの映画として成功しているとは言いがたい。 [review] | [投票(5)] | |
阪急電車 片道15分の奇跡(2011/日) | ローカル線を軸に据えることで、取るに足らない瑣末な事象を日常のわだかまりという生活者の普遍へと持ち上げ、さらに、その小市民的悩みを巧みに操り、よい意味ではぐらかし、最も身近な、つまりは馴染み易いカタルシスへと導く極めて高度な現代版「勧善懲悪」物語。 [review] | [投票(2)] | |
男はつらいよ 純情篇(1971/日) | 宮本信子と森繁久弥のエピソードが、この映画、いやこのシリーズのすべてを語り尽くしてしまっている。大映のクイーン若尾文子は、松竹のマドンナになりきれずなんだか窮屈そう。 | [投票(6)] | |
ファンシイダンス(1989/日) | 周防正行は、日本社会を覆う日常的表層に埋もれてしまい「形式と化してしまった様式や権威」を引っ張り出してきて、最も時代を象徴する状況の中に放り込み、そこから抽出される滑稽さをニヤニヤと笑うことに至上の喜びを見る素晴らしく嫌な奴だ。 [review] | [投票(1)] | |
タンポポ(1985/日) | 単純明快な本筋と“食と欲”が凝縮された逸話群のブレンドが絶妙なのですが、何もそこまで客に媚びなくてもよいのでは、という痛々しい思いが終始つきまとうのは、娯楽映画の新境地を模索する生真面目な天才伊丹十三自身の終末を知っているからでしょうか。 | [投票(3)] | |
マルサの女2(1988/日) | 内偵捜査中の前半はめっぽう面白いのだが、いざマルサが正面対決で始動しだしたとたんに緊張感が失速する。正義の女が話しの軸からはずれて、カラカラと音を立てて空回りしている。伊丹十三も宮本信子も、あるべき過剰さの一線を踏み越えてしまった。 | [投票(1)] |