鷂さんのコメント: 更新順
首(2023/日) | 首と言うより、〇〇。[3.5] [review] | [投票(2)] | |
あんのこと(2023/日) | 実際の話を元に…、という、ありがちな添え書きから始まる。現実には誰も見出してやれなかった孤独に苦悩する「彼女」の背中を、演者の存在、虚構としての作品の存在を介して、私たちが垣間見る。まずは何よりも、告発というよりは、とにかくその人のその生のなりゆきそのものに寄り添おうとする、言わば墓碑としての映画だったんじゃないかと。 | [投票(2)] | |
悪は存在しない(2023/日) | 映画では、(カットを)切ることは即ちそのまま繋ぐことだと、カサヴェテスの映画を見ていて思ったことはある。あるいはゴダールの映画でも、そんな「断面」の感触は確かにある。 [review] | [投票(3)] | |
ここに幸あり(2006/仏=伊=露) | 窓と絵描きとその「落書き」。路傍のノンシャラン。 [review] | [投票] | |
M:I−2(2000/米) | サスペンス的と言うよりはアクション的なギミックとして繰り返される仮面剥ぎ。恐らくは敢えて開き直ってそれを終始一貫のモチーフとして活用する発想は良。飽くまで男どもの狭間に立たされる存在としてのヒロイン像はやはり“古い”のかも。 | [投票] | |
ミッション:インポッシブル(1996/米) | たとえばセリフに於ける言及とイメージされる実像との矛盾的な交錯。たとえばお定まりな仮面が剥がされる瞬間にそれでも微妙に滲む戦慄。そこには映画に於けるリアルとフェイクとの相克的な関係が見て取れる。その狭間での“リアリティ”の往還こそが、映画に豊かなサスペンスを担保する。コケティシュなエマニュエル・ベアールの色香もまた、潜在的な性的欲動のサスペンスの媒体として十分。この1作目あらばこそ。 | [投票(1)] | |
アメリカの影(1960/米) | 飽くまでも脚本という楽譜の上(※)で、しかし即興なメロディやリズムとして揺らぎ、蠢く人間達の影。少なくともこの映画にあっては、人間とは映画であり、映画とは人間だった。 [review] | [投票] | |
ワンダフルライフ(1998/日) | 「記録と記憶は違いますから…」 [review] | [投票] | |
ひいくんのあるく町(2017/日) | 主役は「ひいくん」ではなく飽くまで「あるく町」の方だと思う。 [review] | [投票(1)] | |
ちょっと思い出しただけ(2021/日) | 「思い出す=想起する」というイメージ受容のありようは、映画の本質の全部ではないにせよ、大きな部分を担っているんじゃないか。序盤、池松壮亮を見つけた伊藤沙莉、その数瞬の表情の微妙を捉えるショットが的確で、“その後”の「過去」の挿話の印象が何度もそのイメージに再帰する。そんな映画という媒体の本来的な無時間性を担保とすることで、「ちょっと思い出しただけ」という軽味のふっ切れた様な妙味も生きる。 | [投票(2)] | |
バニシング・ポイント(1971/米) | バリー・ニューマン演じるコワルスキーの、基本優しげで、あるいは時に逡巡や当惑さえ浮かぶ様にも見える眼差しの微妙さは、社会的、時代的な文脈による解釈からも捕捉され切らない微妙さで、何処かへ彷徨い出てしまう様に想える。それは既にして走り出していて、あとはただ走り続ける他もない。ワンアイデアで突っ走る作劇は、映画の物語自体を寓意的な中空へと曖昧に放逐してしまう。 | [投票(2)] | |
17歳の風景 少年は何を見たのか(2004/日) | 映画として試みられた対話=コミュニケーションは悉く失敗している。映画的な出来事=アクションは皆無と言っていい。ただ、「走りたいから走るんだ」という、若さそのものの無尽蔵な力動は嘘じゃない(様に見える)。願わくば、せめて映画の中では、若者はしかつめらしい訳知り顔の老人をこそ、打ち殺して然るべき、だったのかも知れない。(それこそが本気の「対話」足り得るだろう。) | [投票] | |
EUREKA(2000/日) | 言語を介さない中での、あくまでもささやかな覚束ないアクションによるコミュニケーションを丹念に描き続ける。劇中のその人がそのまま役者その人に見えて来る様な(しかしこの逆ではない)掛け替えのなさを生きている。ゲホンゴホンと厳しさを増していくノイズは呪いの様に響き続けるけれども、それでも時間と空間は、目に見えて生きられた世界に回帰する。そこに立つのが女性なのは、これが男性の映画だからで、それだけのこと。 | [投票(2)] | |
イニシェリン島の精霊(2022/英) | 十字架の置かれた、あるいは十字の格子のはまった小さな窓が、内と外を隔てる。 [review] | [投票(4)] | |
11人のカウボーイ(1971/米) | 11人のカウボーイ達は、言わば「男」ジョン・ウェインの“息子”達で、だとするならば、ブルース・ダーン演じる卑小な悪党は“息子になり損ねた息子”、即ち「男になり損ねた男」なのだと見える。素晴らしくアメリカ的に正統的な「教育」の映画で、“父親”の献身と犠牲の映画でもある。平原を駆け抜ける牛馬達の映画であると共に、牛馬達の駆け抜ける平原の映画でもあり。 | [投票] | |
その街のこども 劇場版(2010/日) | 「その街のこども」達が、「その街のあかり」を見つけて歩く一夜。こう言ってよければ、なんだか良質のクリスマス映画みたいな映画。 [review] | [投票] | |
プレッジ(2001/米) | ジャック・ニコルソンだからと言うより、どうあってもジャック・ニコルソンとしか言えないくらいに、ジェリーという人物には物語的な“役割″だけがあって、具体的な細部としての人間的な内実や来歴は何も描かれない。この映画の中で一番不穏なのは、その中心にいるこのジェリーという人物自身のもとからの「空白」ぶりではないのか。 [review] | [投票(1)] | |
さかなのこ(2022/日) | よい意味で、昼日中の休み時間の様な、浪漫的で牧歌的な空気をまとう、のん推しではないけどやっぱりのんならではの映画。「男か女かはどうでもいい」。本当は、誰もがそうだったのかも知れない、本質的な意味での「子供」。走る子供達の姿には、『トリュフォーの思春期』の冒頭を想起した。[3.5] [review] | [投票(2)] | |
シン・ウルトラマン(2022/日) | 太陽は50億年後に膨張して、地球はその膨張に呑み込まれて消滅する。 [review] | [投票(2)] | |
マイスモールランド(2022/日=仏) | 主人公演じる少女は頑張っていたと思う。ふと、こんな子がこんな顔でこんな状況を実際に生きているのかも知れない、などと感じさせられる瞬間はある。 [review] | [投票(3)] |