[コメント] イノセンス(2004/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ロクス・ソルト社が造った件のガイノイドは、いわば未来のダッチワイフであり、その最終形態だ。技術の進歩による快楽分野の開拓がそれを用いる「人」という存在の業であるとするなら、人形(ロボット)が限りなく人を模して進化させられる具体的な目的の一つとして、セクサロイドの登場は極めて必然的であり、人形(ロボット)をめぐる無視できない根本的な問題を孕んでいる。
そもそもマスターベーションにおける快感を肉体の一人称から解放するべく道具が用いられ、やがてそれは行為者の想像力をより大きく補完しその快感をできるだけセックスにおける快楽に近づけるべく、人形と融合させられた。そして人形は限りなく人を目指す、セックスの快楽に取って代わるために、否、セックスそのものを実現するために。
言うまでもなく、それを促すのは突き詰められていく行為者の欲求だ。美しい姿が欲しい。艶めく感触が欲しい。そして動いて欲しい(この時点で、人形はロボットである必要がある)。予測不能に動いて欲しい。常に新しい刺激を与えて欲しい。つまるところ、多様化して欲しい、セックスにおいて行為の対象がそうであるように。
そう、ここで人形=ロボットは限界に辿り着く。何故なら、行為の多様性を最終的に司るのは、個々の性格や人格或いはこの物語がゴーストと呼んでいるものだからだ。それが無い限り、それを侵せない限り、人形との行為はセックスではない。言い換えるなら、行為の対象にも行為に対する認識(意識というレベルで差し支えないが、行為に対する拒絶感まで含んで初めてそう呼べる)があって初めて、行為は一人称から解放されるのだ。
ロクス・ソルト社が法を破ってまでゴースト・ダビングを必要とした背景には、こうした経緯と理由があったと思われる。ただ、このことに対するバトーの反応は極めて小さなものだった。そもそもガイノイドがセクサロイドだったという事実は、「ガイノイドの被害にあった被害者と遺族が企業との示談で済ませた」理由として流されただけだった。
これは、この問題に対する押井のスタンスを端的に顕わしていたように思う。物語中における人形に関する哲学的な語りの中に、本人がどの程度またどのような形でこの問題をリンクさせていたのかは解らない。ただ、少なくとも自分は避けて通れない大問題と踏んでいたので、ほとんど深く突っ込まれていなかったのは非常に不満だった。
そもそも性欲が自己保存のメカニズムの一環としてのみ存在しているとはどうしても思えず、突き詰めれば「他者の温もりを求めずにはいられない」人たるものの根本的な意識を司るものと感じているというのがある。何も最終的な行為に及ぶまでもなく、握手したくなるであるとか、ハグしたくなるであるとか、一緒にいて温もりを感じていたいであるとか、他者の肉体を求める意識は根本的な部分で性欲とリンクしているはずなのだ。或いは、「恋愛」という概念は時にこれを雄弁に助長し、時にこれを暴力的に端折る。
さて、肉体をさしおき自己の迷宮へ潜行するばかりだった『ゴースト・イン・ザ・シェル』における素子の物語が、今回バトーの物語に引き継がれるとすれば、そのテーマは必然的にこの「他者への肉体的な意識」ということになるだろう。この映画では、その対象としてのガブリエル(犬)の存在が殊更重要であることは言うまでもない。前作がコンピューターと駆け落ちした女の話であるとすれば、今作は、犬との蜜月を本気で描いた物語であり、それをフェティズムで片付けてしまうことほど押井とこの映画に対する理解から外れたことはない。その意味では、ガブリエルとのイチャイチャをあれだけねっとり描ききった押井の気合いを疑うものではないのだ。
ただ一方で、バトーがガブリエルを、というか押井がガブリエルを求めるのと同じようにセクサロイドを求めたであろう事件の被害者もいたのではあるまいか? セクサロイドにされた挙げ句に捨てられていくガイノイドたちの哀しみは伝わってこないではなかった。だが、素子やバトーという人形の代弁者たるサイボーグをして、ロクス・ソルトという個に対してではなく、完全な人間たる少女を介し全ての人間に対して憤らせるには、いずれセクサロイドを造ってしまう側のやむにやまれぬ業をあまりにも無視してやしないか?
或いは、何故、人は、人並みに多様化したはずのセクサロイドを捨てるのか? 単に飽きるからか? それとも、怖くなるからか?どっちにしろ、そこにこそ描くべきものがあり、描けば人間の悲哀もまた噴出してくるだろう。そう、虚像が泣くのは実像が泣くからだ。それが鏡だ。虚像の涙を見せられつつ、実像が泣いていないかのように見せられたって、信じられるわけがない。
或いは、サイボーグは人形の代弁者として適切だったか? バトーと少女の間に明快な一線は見えたか? バトーはかつて素子がそうだったように、人を批判できるほど己に対する苦悩を抱いていたか? この懐疑はラストの素子の処理を見て、爆発した。
「いつでも傍にいるわ」
かつての片思いをプラトニック・ラブに異化できてしまったのは、ガブリエルにより肉欲が十分満たされるようになったからじゃないのか? 頭と体を二つに分けて各々に恋をさせてご満悦とはなるほどサイボーグだが、それができてしまうヤツにできないことを糾弾される憶えはない。
俺が見たかったのは、素子の頭と肉体の圧倒的な乖離に哀しみ、素子を追ってそうなろうと思えば同じようになれてしまう自分自身に戸惑うバトーの姿だったのだ。人間はそうはなれない。なれてしまうのがサイボーグの哀しみなのではないか? それが描かれて初めて、人形の哀しみは人の哀しみと等価となり、ガブとの蜜月も一般大衆に対して説得力を持ち得たろうに。
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