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★2鳳鳴 - 中国の記憶(2007/中国)延々と、まさしく延々と3時間うち続く独り語りの物語り。このことを語るに何故この手法でなくてはならなかったのかが分からない。大体、これは果たして「映画」なのか?[投票]
★3ルート181 パレスチナ−イスラエルの旅の断章(2004/ベルギー=仏=独=英)2005年山形国際ドキュメンタリー映画祭にて。当時監督らは更に追加撮影・編集する予定もあると語っていた。その未完結性からしてある意味では「開かれた」映画(ロードムービー)。レヴィナスを好んで読んだと語りながら自らの立場にはなんの疑問も抱いていないらしいイスラエル兵の青年のことが記憶に残った。教養と実存の乖離。[投票]
★2Kiss me or kill me 届かなくても愛してる(2005/日)前田耕陽いいツラの皮。それにしても、エロもドラマも中途半端で、何の為の、誰の為の映画(?)なのだかがわからない。[投票]
★3半月(2006/イラン=イラク=オーストリア=仏)のっけからキルケゴール、そしてケータイ、デジカメ、ノートPC…。こちらの勝手な中東(の田舎)のイメージを覆してくれる。それにしてもお話は、糸の切れたタコのようにどこへやらと飛んでいく。なんだったのか、いったい…。[投票]
★3愛しのアイリーン(2018/日)「人間関係は心の戦争」(原作台詞)。「冷たい戦い」ならぬ「熱い戦い」としての活劇的メロドラマ。つかず離れず、微妙に揺動し続けるハンディキャメラはそこに“いる”ことで群像を等価に、然し決して冷淡ならず映し出す。飽くまでも被害者ではなく加害者として己を演じ続ける人物達の相克が本音も建前も欲と金の奔流の中に消し尽す。そして唯一残響することになる、なけなしの告白。〔3.5〕[投票(3)]
★3SUNNY 強い気持ち・強い愛(2018/日)一見タイプキャスト的なキャスティング間に、それでも同一的な繋がりが見えてくるのはなんの巧妙か。コギャル連の泣き笑いの率直な表出が、その生態あれこれを単に時代風俗としてでなく映画内アイコンとして息づかせ、見る者の素朴なシンパシーを喚起する。あられもなき池田エライザのつかいかたの、つくりものめいたいかがわしさにこそ、映画演出本来の絶妙、奇妙がある。否応ない物的露呈こそが“感動”を印象に刻印する。[投票(2)]
★4寝ても覚めても(2018/日)心理を微分するのでなく言動を積分することで、人物と物語を描き出す。人物の言動が心理的脈絡を追い越すように繰り出され、その断続が全体に瀰漫する不穏、その不断なサスペンスと波及し合うことで物語が紡がれる。心理的人物の表象ではなく、心理的現実そのものとしての映画。だからこそそれは、震災の変動をたんなる歴史的事実ならぬ、普遍的な世界の不穏そのものの表出のようにも描き出す。だからこその、男女の邂逅。[投票(3)]
★4トップガン(1986/米)物語は定型の紋切型でも、こまやかな描写=演出は卒なくしかし確かに映画を映画に仕立てあげるかに見える。僚友の死に際し、相貌を飽くまで鏡越に捉えるに留まる構図、激励を飽くまで逆接として語るに留める台詞、そのさりげない節度。青年の「帰還」と「帰属」の物語としての細部と挿話の反復的な配置。空中戦はさすがに錯綜的だが、見分けのつくかぎり筋書も見て取れる。素直に面白い。[投票(2)]
★3ペンギン・ハイウェイ(2018/日)「泣くな、少年」。「お姉さん」は概して人間というよりは人形で、それだけ関係の構図はグロテスクかも知れないが、不意打的で断絶的な黒味画面は随所でその関係の切実な真相を瞬間的に表層化する。幼い妹の突然の慟哭の挿話によりそこに有と無に極限化される少年期的な存在論的真理の真実味がもたらされる。少年はしかし、最後の最後に決定的に決壊してこそ全ては掛け替えもなく真実化されるのではなかったか。〔3.5〕[投票(1)]
★4それから(2017/韓国)時制交錯の時系列整序が、やりとりされるコミュニケーションの内容自体によって担保されることの際どさ。言わば剥きだすテクストによってのみ支えられている映画。その中で、恐らくはこの映画のモノクロである所以、つまり雪と女優のイメージが交錯するあのさりげないショットの、その一点突破的な映画への欲望は、是とされるものではないか。[投票]
★3ミスミソウ(2017/日)審美的ではあれ、それでも効果的に画面に刻印され続ける人工の(恐らくはCGの)雪。映画の中で物語が駆動する為には私闘は飽く迄私闘でなければならず、全てを覆い隠すように降り続ける雪は物語に必然のイメージ。人物の実存を輪郭として浮彫にする赤白の対比と、活劇として撮られるアクションの応酬(逆手にもち替えられるナイフ)。[投票]
★3レディ・バード(2017/米)軽やかかつ果断な編集のリズム。恐らくは敢えて回収されない話の末節。ファミリーと言うよりはホームの、もっと言えばホームタウンの映画。後景にホームタウンと言う社会的空間あってこそ、前景の青春劇も軽やかかつ果断な編集のリズムで綴る事が出来たのではないか。フィルム的な画像の質感と近過去設定の妙なマッチ感もその空間あってこそでは。〔3.5〕[投票(1)]
★4レニングラード・カウボーイズ、モーゼに会う(1994/フィンランド)レニングラード・カウボーイズ・ゴー・ホーム! ヨーロッパ的な陰影と湿潤への親和性、そして「帰郷」と言うモチーフを見るにつけ、やはりカウリスマキはヨーロッパの、しかし越境の作家だと想う。メキシコ部やヨーロッパ部、果ては異邦人としてのアメリカ人まで“相乗り”する赤いバス。はりぼてリーゼントととんがり靴がなけなしな“アイデンティティ”として画面に刻印される。[投票(1)]
★3レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ(1989/フィンランド=スウェーデン)「その他大勢」の映画。レニングラード・カウボーイズの集団としてのシルエットは、とりあえずそのルックの統一と無表情演技にあるとは言えるが、それはけっして貫徹されず、その雑駁な集合が牽引にゾロつきながら歩きまわる様は、映画の中に主体なき主役としての「その他大勢」という奇態な実存を生み出すことになる。その奇態な実存あってこそ、サウスアメリカ裏街道という背景との微妙な距離感も生きる。[投票(4)]
★3blank13(2017/日)小品的な小品、つまり自己完結的。「ブランク」の露呈が三文即興劇的に終始する様子はけっして映画自体の印象を攪拌することもなく、言わば70分の尺のその又半分だけの内実しかないが、そこにはたしかに美点もある。松岡茉優のごくありきたりな「受胎告知」の場面に、ふと「聖なる瞬間」なんていうフレーズが浮かんだ。「人生」の機微はそんな「聖なる瞬間」の密やかな積み重ねにこそあるのだと。[投票(2)]
★3万引き家族(2018/日)点と点が線で結ばれ、線と線から面が生まれ、面と面が組み合わされて立体となる。一見末節同士でしかないような事象相互によって「社会問題」のモジュールが出来あがる。だがそこに内実を感じない。苦悩を生きて告発する中心的な肉体を感じない。映画的に彼ら彼女らを結びつけるのが互いの視線の絡み合いであるならば、ラストショットは映画から現実を睨み返すような逆接的な直視こそ欲しかった。〔3.5〕[投票(3)]
★3永い言い訳(2016/日)道化的に相対化される奇矯な立居振舞の束の間、ふと疎外された子供のような覚束ない表情を見せる本木雅弘。演出・演技による造形の実体はそこにある、ように見える。場面と楽曲の編集に於けるシンクロが全体に渉る映画のリズムを生み、本当の心=涙が一筋だけ然りげ無く頬を伝う一時の、そのために映画は描写を積み重ねる。世界と人生は自意識の器ならず、という自得。 〔3.5〕 [投票(1)]
★4レディ・プレイヤー1(2018/米)童心を介して通じ合う作り手と受け手という構図も仮想と現実に関する教訓も、児童娯楽映画の体裁に過ぎずそれ以上でも以下でもない。それよりなにより観客を映画に繋ぎとめるのは、あのじつにまどろこしく、まぎらわしく、それ故愛らしい半端なアクセスギア(?)の設定あれこれ。活劇は飽くまで生身の運動によって展開されるという原理の担保でもあり、それはゴッコ遊びとしての映画そのものを無辜の饗宴となさしめる。[投票(4)]
★4メイド・イン・ホンコン(1997/香港)無駄肉のない逆三角なサム・リーの精悍な両肌の若者らしさ、その体勢の前後への傾斜のチンピラ加減が映画のキモとしてこれ以上ないピースとして輝く。死せる乙女の肖像に憑りつかれ夜ごと繰り返される夢精(自慰ならぬ夢精!)。深いフォーカスで見せる狭く薄暗いビル回廊と遍在する生活音ノイズが香港の街の空間=空気を言外に浮かびあがらせる。それを呼吸する人物の息衝く息遣いさえつたわってくるかの如き「青春」の映画。[投票(1)]
★5火垂るの墓(1988/日)無数の蛍の火は、無数の命の火で、それは朝になれば無惨な無数の骸になり果て、まとめて葬り去られるほかない。兄妹は赤い炎につつまれ、あるいは自らが赤い炎そのものとなって闇の色、光なき光(赤色)として灯り続ける。その社会、その時代、その関係、その自分で出来うるかぎりに精一杯生きて、そして死んだ。その事実。それだけの映画。最良の宮沢賢治のような戦争文学映画。[投票(3)]