★3 | かぶりつき人生(1968/日) | 独特の長回しにはまだ明確な意図は感じられないが、ルーズな構成や展開は神代節の萌芽であり、「裸と性を武器に成り上がる上昇志向の女」と「だらしない母と娘の愛憎」という、後の作品の志向がはっきりと見えるのも面白い。まぎれもなく神代映画の誕生である。 | [投票] |
★3 | 遠い明日(1979/日) | あの姫田ではなく原一民撮影のせいか、驚くほど神代臭のない素直な作りで、神代偏愛主義者には拍子抜けするほど見やすく分かりやすいのだが、それは長所でもあり短所でもあるという皮肉。当時の三浦友和は、ことのほか素晴しかったという30年ぶりの発見。 | [投票] |
★3 | ライフ・イズ・ミラクル(2004/ユーゴスラビア=仏) | 失恋に涙し働かなくなったロバと、忠実・律儀なるがゆえに知らぬ間に孤独に陥った男(スラヴコ・スティマッチ)の、思想や理屈を超えた恋物語として描かれるこの家族の解体と再生の寓話は、国家のゆるぎを軽やかに超越した、好い意味で大味な恋愛映画である。
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★3 | 許されざる者(1960/米) | 本来は兄と妹の近親愛の話しなのだろうが、そこをまともに描くと西部劇として軟弱になりかねないと考えた節があり、絶対悪たるネイティヴアメリカンに対する勧善懲悪ぶりが唐突に振りかざされるので、見る側の価値尺度が混乱してしまう摩訶不思議なスター映画。 | [投票] |
★4 | 夫たち、妻たち(1992/米) | 愛とか信頼とかのごたくは、所詮は事後の都合で、男と女がくっつくのは、どだい互いのダメな部分同士が欲望を介して呼応し合っているだけで、男であろうが女であろうが、その人の最良の部分が、互いの相手以外に向けられがちなのは、現実世界でもよく目にする。 | [投票] |
★2 | アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン(2009/仏) | 男たちの苦悩がどこまで行っても平行線(物理的にあえて狙っているようでもあるが)で、何ら呼応も反応も生み出さず、ただベタな比喩が無骨に横たわるのみ。さらに、肉体的苦痛のみ強調されて、精神的苦悩など皆無なのは映画をつむぐ繊細さが欠如しているからだ。 [review] | [投票(2)] |
★3 | アリスのレストラン(1969/米) | アーロ・ガスリーやアリス(パット・クイン)たちは、ただ脳天気に生きているだけなのに、それが勝手にカウンターとしての意味を持ち得るということは、それだけ体制が膠着しているといことだ。相手が石頭であればあるほど、からかいがいもあるというものだ。 | [投票(1)] |
★4 | インスタント沼(2009/日) | 神話を信じられるようになった見栄っはりな主人公と同様、三木聡自身も映画が信じられるようになったかのように、ギャグと物語のこなれ具合に新境地が見える。意地、見栄、ウソなど、さっぱり洗い流して呪縛から自由になること、好いではないですか。支持します。 [review] | [投票(2)] |
★3 | チェイサー(2008/韓国) | いささか強引なのか、すこぶる豪腕なのかはまだ分からぬが、ナ・ホンジンは非凡な力技で、勢いあまって「善やら悪やら」あるいは「悲嘆やら情感やら」をもねじ伏せてしまった感あり。活きのよさのみでの爆走は、新人監督にとって決して悪いことではないのだが。 | [投票(2)] |
★4 | エグザイル 絆(2006/香港) | かつての西部劇がそうであったように、弾丸を発射するにあたって、とりあえずの理由はあっても理屈などいっさいなく、これまた古典的なほど単純明快な男たちの行動原理が、心地よい底の浅さを呈し続け、見る者の思考や偏見を排除する高純度の銃撃ファンタジー。 | [投票(1)] |
★3 | 桜桃の味(1997/イラン) | 男の唐突なもちかけに、耳すら傾けない地元労働者。金銭では解決できない畏れにたじろぐクルド人兵士。主旨は理解するが行動は拒み続けるアフガン人神学生。報酬のために事を引き受けつつも思いとどまらせようと言葉を尽くすトルコ人学芸員。全て生への実直さ。 [review] | [投票] |
★4 | 民族の祭典(1938/独) | 冒頭以外は単調な構成にもかかわらず、リズミカルな編集と、協力国としてかなり意識された(どう見てもライブではなさそうなショット群による)日本向けの巧みな演出が心憎い。米国に対抗すべき存在としての「欧州」と「日本」という意識が垣間見え興味深い。 | [投票] |
★3 | 美の祭典(1938/独) | 機械体操や高飛び込みといった得点競技の扱いが舞踏のようで、勝敗を超越したリーフェンシュタールの美意識が如実に表れ興味深い。一方、十種競技へ投影された英雄願望や、馬術や近代五種にみる軍の威信を賭けた争いに国家=軍という当時の図式がよく表れている。 | [投票] |
★4 | 風と共に去りぬ(1939/米) | 動乱の地域性と時代を的確に伝えるスケール感、その背景の濃さを鈍重に感じさせないメリハリの利いた語り口。強固な演出のバックボーンが作劇のダイナミズムを生み、スカーレットの激情とレッドの達観、メラニーの誠実とアシュレーの優柔ぶりを際だたせている。 | [投票(3)] |
★3 | ニューヨーク・ニューヨーク(1977/米) | 楽曲シーン以外、ほとんどジミーとフランシーヌのやりとりのみ。しかもどのシークエンスも長尺で、話しの拡がりをあえて排除し、二人に焦点をあてる構造なのだが、「執着」と「柔軟」の掛け合いはすれ違い、その葛藤は見えず。ライザ・ミネリの歌で体裁を保つ。 | [投票(2)] |
★4 | ブロンコ・ビリー(1980/米) | 郷愁のウェスタンという時代の縦糸と、転々流転の興行という社会の横糸のなか、本物のアウトローに成りきれなっかた心優しきはぐれ者集団は、常に誇らしく颯爽と、しかし、ときにジタバタと滑稽に世間を渡る。伝統的ポジティブさに彩られた現代米国渡世人物語。 | [投票] |
★2 | スラムドッグ$ミリオネア(2008/英) | 力に溢れたショットと、小気味良い編集でぐいぐいと引っ張る巧みさ。幼少期の大きく澄んだ瞳が一転して、力なく脅えたように彷徨う青年期のジャミールの定まらぬ視線の物悲しさ。大胆さと繊細さが織り成す外見上の映画としての見てくれは実に心地よいのだが。 [review] | [投票(7)] |
★5 | 愛のコリーダ(1976/日=仏) | 経歴や身分といった制度的しがらみや、物欲や打算といった社会に付随した欲望など微塵もない。定が吉蔵に突きつけるのは、人が人であるための純粋な欲望であり、そこに如何なる不純も存在しない。そんな、いじらしさと切なさを松田英子は全身で体現していた。 [review] | [投票(2)] |
★3 | ヤング・ゼネレーション(1979/米) | イタリアかぶれが青春の大いなる勘違いなら、進学しさえすれば将来が拓けるというのも勘違い。同じ勘違いなら思い入れが激しい方が微笑ましい。さらに、思いの激しさとはまぎれもなく「力」であり、方向さえ定まれば、ことの大小は別にして必ず成果は生まれる。
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★4 | グラン・トリノ(2008/米) | 殺戮の歴史が育んだ幻想としての誇りは、今や亡霊のようにコワルスキー(クリント・イーストウッド)、すなわちアメリカを苦しめる。次のステージに向けて、この歴史と文化価値の飽和を脱するために、何を受け入れ、何を排除するかという選別と決意の映画である。 [review] | [投票(9)] |