[コメント] 市民ケーン(1941/米)
映画史には「踏み絵」のような映画があって、まさにこの『市民ケーン』はそれにあたると思う。ステレオタイプに分類することを恐れずに言えば、この映画を楽しめない人は多分に映画を「内容」で楽しむ嗜好の持ち主であり、この映画を楽しめる人は映画の「形式」を重視して楽しむ人だろう。どちらが良いとか、高等だとかの話じゃない。この映画を前にしたときの多くの人の身振りを観察する限り、私にはそう思える。(ま、「踏み絵」という言葉には政治的な臭いがつきまとうので、言葉使いとして適当じゃないかも知れませんが)
という訳で、私は『市民ケーン』が世界映画史上のベストワンだと言われてもいっこうに不思議ではない、桁違いの魅力をもった映画だと思っています。
まず、誰もが口にするパン・フォーカスに関して言っても、映画史上で徹底的にパン・フォーカスを意識して利用された初めての映画だから、つまり映画の技術革新として『市民ケーン』が凄いのでは断じてない。(事実、この映画以前に溝口健二やジャン・ルノワールが相当に被写界深度の深い演出をみせています。)『市民ケーン』のパン・フォーカスに匹敵するくらいパン・フォーカスが効果的な使われ方をした例が未だもって他に無いところが凄いのです。アグネス・ムーアヘッド(大好き!)扮する母親と別離する雪降る小屋のシーンのパン・フォーカスなんて、このシーンに拮抗できるほどのパン・フォーカスを思い浮かべることができない。
また、リーランドとケーンが演劇を巡って言い争うカットが、もの凄い仰角の長回しで部屋の天井がバッチリ写っている、なんてところや、集合写真の人物達が突然動き出す異化効果や、クレーン移動による数々の眩惑的なシーケンス・ショットや...。この映画の画的な魅力を上げていくとキリがない。『市民ケーン』のラストは、何が映っているかよりも、それが映る迄のカメラワークの方が遙かに凄い。
ま、「薔薇の蕾」にまとわりつくセンチメンタルなテーマ性・ストーリ性があるからこそ、映画の「形式」を殆ど楽しまない人々の一部からも、支持されうる戦略が施されているわけですが、私は、「薔薇の蕾」なんてヒッチコックの言う「マクガフィン」でよかったと思っている。つまり、『市民ケーン』は「薔薇の蕾」の正体が何であれ、ラストで自走するカメラによって明らかにされなくとも、依然、映画史のベストワンで有り続けたであろう桁違いの面白さ。世界映画史上の大傑作。
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