★2 | ヤッターマン(2008/日) | 担保ある愛が観察に価しない。ドロンジョにはボヤッキーの、ボヤッキーにはトンズラーの好意がある。トンズラーは自分のことが大好きだ(たぶん)。したがってもっとも悲痛なのはドロンジョに執着するドクロベーなのだが、ここにはフォローがない。 [review] | [投票] |
★4 | おくりびと(2008/日) | もはや浮世離れの記号でしかない広末をキャスティングした理由が当初見えなかった。この役が実は狭猥な世間そのものだとわかると、自分なりのやり方で人生の退却戦に立ち向かう女優の姿が見え、好感を持った。 | [投票(2)] |
★4 | リミッツ・オブ・コントロール(2009/スペイン=米=日) | 文系映画。美術館と現代建築めぐりで人はブルース・リーになれる。龍爭虎鬥に挫折を覚えるわたしでも、これを見た後は完全にブルース・リーと化していた。ビル・マーレイもあざといが体は勝手に反応。 | [投票] |
★3 | 知らなすぎた男(1997/米) | インフレだけでは物足らなかったはずで、薄幸なジョアンヌ・ウォーリーに生き甲斐をもたらせたのが大きい。あるいは彼女が共感の難しいビル・マーレイに好意を見いだせたこと。視点の移動が効いている。 | [投票] |
★3 | グリーン・ゾーン(2010/米) | ジミー大西の好奇心が職業人のそれではなく、造形と物腰が解離。職業人のかっこよさでいえば、CIAのおっさんや現場のコワイ髭オヤジに目が行ってしまうし、テンパリ度で言えば、もちろん通訳フレディや将軍の映画である。 | [投票] |
★4 | フェイク(1997/米) | 八百長だからフロリダで盛り上がっても空しいものはある。パチーノへの執着も、もともと八百長であるがゆえに、わざわざデップの台詞で説明されないと実感が湧かない。ただ他人の会話を遠巻きに眺めるような疎外感のコントロールがジワジワと効いてくる。 [review] | [投票] |
★3 | 第9地区(2009/米=ニュージーランド) | 対処療法の観察だけでは心許なく、唯一共感できるエイリアンの望郷を会社員の行動とリンクさせたい。しかし、よい意味での舞台設定の緩さが行動や信念の信憑性を扱う段になると、粗雑な印象は否めなくなる。ドキュメンタリーのつまみ具合にもその傾向あり。 | [投票(2)] |
★3 | パリより愛をこめて(2010/仏) | 運転手がいちばん偉い。職人の身振りで物語を見せるだけでなく、何気なくトラボルタに引っ張り出される造形導入の日常性が職人の遍在を予感させて、記号でしかなかった謎の組織に実体を与えている。あれを主役にしろよと思ったがそれが『96時間』か。 | [投票(1)] |
★4 | マイレージ、マイライフ(2009/米) | 冒頭の空撮ワイプにThis Land Is Your Land を被せずにはいられないくらい図解性に執着してしまう映画で、アナをベタな小娘造形に貶めるのは罪深い楽しさ。しかしサム・エリオットの機長振りにはクルーニーとともに戸惑う。 | [投票] |
★3 | 追跡者(1998/米) | トミー・リーの俺得アイドル映画だからこそ、冒頭の着ぐるみから始まるお着替えプレイは意図が露骨で萎える。船頭おやぢとのいい顔ツーショット、アンビュランスを要請するテンパリ顔、心底イヤそうな部下との対面顔。こういうものがたまらん。 [review] | [投票] |
★3 | 月に囚われた男(2009/英) | 時間制限に関する曖昧な認知が自我の危機を深化させず、ただ追い立てることで作業療法的な中和を行い、むしろその制限が行動の理屈付けだけに利用された感がある。そのため観察に倦怠は生じないが、危機の納得行く落とし所も見つけがたい。 | [投票] |
★4 | 華岡青洲の妻(1967/日) | 目前に若尾のうなじがあるというのに、若尾視点であるから高峰にピンを送らねばならないくやしさ。しかしボケ足に包まれるからこそ、触れそうで決して触れないあのうなじの淫靡さが増感し、保造の焦燥した息づかいが真に迫るのである。 | [投票(2)] |
★3 | バタフライ・エフェクト3 最後の選択(2009/米) | 改変の影響を明確に定義しない履歴性の弱さがキャラを動かす前提となるから、心理やセットのディテールに執着が出てくる。が、来歴のなさゆえに因果を語れない以上、ネタ暴きの過程は皆無に等しく、猟奇描写で誤魔化すほかはない。 | [投票] |
★3 | じゃりン子チエ(1981/日) | 会話のテンポを狂わせがちな間の一拍が、拳骨との絡みでは好ましいフラストレーションにはなっても、基本的に喜劇の生理を持て余す。しかしヨシ江関連のパートに入ると、この生理が一気に話を映画の風格に持っていってしまう。 | [投票(1)] |
★3 | デイ・アフター・トゥモロー(2004/米) | クエイドの後ろに控える髭面(ジェイ・O・サンダース)の自己主張にサイドミラーのピン撮りで応えるエメの心意気(しかし…)。UK組の侘びしさに涕涙すれど、最後は副大統領ケネス・ウェルシュに北半球と釣り合う満腔の顔面を見る。 | [投票] |
★3 | 脳内ニューヨーク(2008/米) | 演技というルーティンが自我を支える温柔な牢獄に至る課題があり、その損益分岐点として更年期の不安が使われる。この生理的な執拗さはテンプレの牢獄とセクシャリティの問題を橋渡しするようでいて、逆に個々の噛み合いのなさをあからさまにしていると思う。 | [投票] |
★3 | ウディ・アレンの夢と犯罪(2007/米=英=仏) | コントとはいえドッグレースや伯父の存在が条件づけを無効にすると、確かなのはコリンの顔面だけとなる。後に畏るべき暴走によって、眉目濃密な顔面の安らかな意味合いが人々の想いを超え始めるのだが、それを手応えある観察と評するにはストレスが過ぎる。 | [投票(1)] |
★4 | 2012(2009/米) | 事件が駆り立てるべき人びとの動機に仕込みが足らないため、イベントがアトラクション化して、感情移入が因果関係の甘さを粉飾できない。しかし話が後ろ向きになると俄然輝き出すのが老人たちで、つまり老人ディザスター映画というニッチな輝き。 [review] | [投票(1)] |
★4 | それでも恋するバルセロナ(2008/スペイン=米) | 忽然とするヨハンソンの顔芸に天然キャラへの嘲笑が含意されるかと思えば、やがて天然であるからこそ果たせる役割が見出される。こうした配慮がイヤミにならず、類型で受けを狙った個々の造形は生きた人間として語り直される。えらいものだと思う。 | [投票(4)] |
★3 | ハート・ロッカー(2008/米) | 発汗とか唾液とか、体液への興味を充足させるアイテム(ストロー、カートリッジ)の強引な使い方がフェチを煽る所もあって、寄りがちな画面も生理的な興味と解せばCQBの誤魔化しとばかりは言えない。しかし雨樋を滴る水まで粘性を獲得するのは露悪的か。 | [投票(4)] |