[コメント] ALWAYS 三丁目の夕日(2005/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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正直、この映画に新しいものは何もない。ある世代以上の観客の記憶にひっそりと残り、辛うじてその五、六年後ぐらいまでの世代が、伝承やフィルムから懐かしさのお裾分けにあずかっているプロット、および風景ばかりだ。西岸良平の絵が苦手なので推測するよりないのだが、膨大なエピソードの中から「鈴木オート」を経営する家族が集団就職の少女六ちゃん(原作では「六さん」という男性だと知ることなく観られたのは、ある意味僥倖だった)を受け入れ、彼女がその仕事と家庭に馴染んでゆく経過、そして駄菓子屋の親父に甘んじつつ小説で大成せんとする茶川が、ひととき居酒屋のおかみ、それに淳之介という少年と家族のようなコミュニティを築く物語を抽出したものなのだろう。
純情で頑張り屋の少女・六ちゃんを演ずる堀北真希がじつに可愛らしく、薬師丸ひろ子の肝っ玉母さんぶりも堂に入っている。一平と淳之介を演ずる少年たちも上手い、とは言えないがのびのびと演技している様は好感が持てる。一方、ダメ小説家の吉岡は(原作ファンの指摘を待つまでもなく)もう少し年季の入った俳優にやらせた方がいいと感じる(これは二度目に観て考えを改めるに到った)し、工場長の堤も体当たり演技の意味を取り違えているんじゃないか、という気がちょっとする。だが、蓮っ葉な下町の天使をこなした小雪を含めて、俳優に悪印象を感じさせる者はなく、爽やかに見させてもらった。
だが、彼らの芝居をいやが上にも盛り立てているのは背景である。上野駅の雑踏、下町の完全な再現、都電の走る表通り、みな鳥肌が立つ思いがした。またテレビやオート三輪、駄菓子屋のもろもろなどの小道具も懐かしい。余計な「CG」は淳之介の小説を読んだ少年たちが感じる「未来都市風景」だけだろう(あれは現代に擦り寄りすぎていて、昭和の想像力を超えていた余計な唯一の部分だ)。
そうして、それらがあったからこそベタな泣かせで本当に泣けるのだろう。若い世代はともかく、自分は辛うじて日本が上向きに発展していたあの頃を覚えている。だから意地っ張りの吉岡と小雪のお遊びのようで真剣な恋(あの「見えない指輪」を吉岡にはめさせ、見つめながら「綺麗」と呟く小雪)や、堀北に対する鈴木一家の思いやり(小さな工場を大きそうに偽ったことに怒る堀北に、「戦争も終わったんだ。立派なビルヂングもきっと建ててみせる」と夢を訴える堤、また帰郷を拒む堀北に実家からの手紙束を渡し、母のやさしさを語る薬師丸)子供たちへの親たちの深い愛(薬師丸の、息子のセーターのポケットに縫いこんだ思いやり、三浦友和の戦争で逝った家族にみやげを買う哀しさ、そして何よりも吉岡の居候少年への不器用な愛情)に涙腺が緩むのだ。クリスマスネタなんて(あれの起源にはアメリカのコマーシャリズムが…なんてウンチクはこの際置いといて…)今のスレた世代の考えられるネタじゃありませんよ。
『ジュブナイル』や『リターナー』のようなCGを意識させ過ぎる作品よりは、やはり山崎貴にはこうした職人仕事に徹した作品を撮ってほしい。ただし、同じノスタルジー映画は結構。これは一回しかやらないからこそ生きるネタだ。
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