[コメント] イノセンス(2004/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
待ちに待った押井守監督の新作。この日を、文字通り指折り数えて待っていた!更なる衝撃を求め、当然公開初日に行ってくる。
観始めてものの数分で怒濤の映像の波にのまれ、冷静に観るのを早々にあきらめ、全てをとにかく頭の中に取り込むことに専念。終わった時には既に疲れ切っていた。
それで観終えた感想だが…まことに申し訳ないが、「なんだこりゃ?」だった。
…いや、決してこれはけなしてる訳じゃない(★5は伊達じゃない)。押井氏の作品を観た時は大概私の場合、この反応になる。予想しているもの、期待しているもの、それらがことごとく外されてしまうのだ。それを“あっけない”と思うか、“押井も落ちたな”と思うかはその時次第だが、大概これが時間が経過すると、じわじわと頭の中を浸食してきやがる。頭の中にとりあえず放り込んでおいた映像がどんどん解凍され、徐々に色々な情報が頭の中に行き渡ってくる。しかもその後普通の生活をしていても、頭のどこかではそれを解釈しようと動き続けているので、大抵観て数時間経つと、軽い頭痛を覚えてくる。本作はその典型的例みたいなもんだ(現在拝見後10時間が経過しようとしているが、大体4時間後くらいから始まった頭痛が、ようやく少し治まってきたところ…書き終えたところで頭痛は去ってくれた)。
最初にこの作品、原作がまずある。士郎正宗による漫画「攻殻機動隊」第1巻の第6話「ROBOT RONDO」が元ネタ(それ以外に1巻や1.5巻からいくつもの小ネタ)。これは本来素子が人形使いと接触する前の話で、話自体は前作『攻殻機動隊』(1995)ほどの盛り上がりは無い作品だった。私が「なんだ?」と思ったのはその点で、あれだけ前作で盛り上げておいて、又えらく渋いのを選択したもんだ。大体、人間と電脳の融合なんてとんでもないものを映像化してしまってから、なんでこんな当たり前(と言っちゃ悪いけど)の話にしたんだ?人間と機械のこれからの世界を見据える作品になることを期待していたのに…そこが難点だった。
確かに映像に関しては満点以上の最高の出来だし、音楽も最高。前作のエンディングテーマがアレンジされ、内容も“結婚”が“夜待ち”に変わっているところがミソだ。特に機械音までするオルゴールの演出には驚かされた。
ただ、ストーリー的にぬるく、盛り上げ方が中途半端。数多く存在する伏線も唐突すぎ。後にならないとあれが伏線だとは分からないのが多すぎる。実に単純な物語に色々変なものをくっつけただけのものに思えた。
テレビやネットに流れる試写会の感想を聞くインタビューを聞いても、ストーリーに言及する人はほぼ皆無。
正直、その時点で点数付けさせてもらったら、多分80点程度だったと思う。それでも高すぎると思ったくらい。これをコメントにすると、“下らん作品を「面白いと思いたがっている」だけのもの”になるかも知れない。これは正直怖かった。
だが、やはりとりあえず放り込んでおいた情報が徐々に浸透するに従って、来た来た。来たぞ〜!
以降は久々に電波受けまくりで暴走させていただこう。不快に思われる方もいると思うので、一応の警告。
押井氏の映画に貫かれているもの。それはいくつも考えられるが、その一つとして、“今あなたの目が観ているものは全て本物でなかったら?”と言う疑問から出ている。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)では「終わらないお祭り前日の日常」であり、『機動警察パトレイバー 劇場版』(1989)では、「盤石に見える現実の都市」。『御先祖様万々歳』(1990)では「家族という制度」。『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』(1993)では「我々が現在享受している平和」というものについて。『Avalon』(2001)では仮想現実であるゲームという素材を用いて、「本当に目で見えている世界そのもの」。それら全てのあやふやさについて描いていた。
更に前作の『攻殻機動隊』では、ゴーストという言葉を用いることによって、「ここに存在している私」そのものを疑う。原作にも言及があったのだが、誰も自分の脳みそを見た人間はいない。それなのに、自分が存在するのは、果たして人間としてなのか。アイデンティティそのものがオリジナルなのか?と言うストレートな問いがなされていた。
そして本作は前作の考えを更に一歩進めている。それは私なりに言わせていただければ、“存在が曖昧だからこそ、手で触れ、肉に触る、リアルというものをやはり持つべき”と言うことになるだろうか。
本作の主人公はバトー。彼は全身がサイボーグであり、人間と人形との境目が極めて曖昧な存在として描かれる。彼は前作で素子を愛する存在として描かれていたが、その素子自体が既に電脳の彼方に行っている。言わば、バトーが接触する端末全てが素子の“匂い”を感じさせられるものであったとしても、そこに“リアルな感触”というものがない。彼の接触する大抵のものは人の匂いがする“人形”でしかない。人間と接していても、その人間自体がほぼ“人形”と化してるのだから。
そんな彼が“生”の感触として持っているのは、バセットハウンドのガブリエル。動物は人を裏切らないから…正確に言えば、犬は自分の欲望を満足させるため、そして飼い主を愛するが故にそこにいられる。そこには何のまやかしもない。確かに手間がかかるペットだが、手間がかかるからこそ、“自分は自分として生きている”という感触を強く持つことができる。
バトーにとって、自分が自分でいられるためには、どうしてもガブリエルが必要だった。これは劇中に描かれる彼の行動様式を見ても明らか。9課の仲間であるイシカワに対してさえ、決して自宅近くまで一緒に連れて行かない。(多分)何台も所有している自分の車の近くに来させるだけ、しかもそれでさえ隠れるようにして。そんな彼がガブリエルのためには、決まった店でフレッシュタイプのドッグフードを購入する。彼の立場で、いつも決まった場所に立ち寄ると言うのは、あまりにも危険なことなのに、それを敢えてするのは、それが“彼のアイデンティティ”だから。イシカワが吐き捨てるように「ドライタイプにしろ」と言う言葉も、頭ではそれが分かっているだろう。だが、彼には自分をたとえ危険にさらしても、守らねばならないものがあった。それが“自分が自分である”事だから。
更にこれを進んで考えてみると、バトーは“死にたくない”という思いを自らに課すため。とも考えられる。前作で“人形としての自分”を捨てることに成功した素子のように、望みさえすれば自分もそうなれる。それは一種の願望であったかも知れない。そうすれば素子と常に一緒にいられるのだ。だが、それはまだだ。ガブリエルのために、今は殻を脱ぎ捨てる訳にはいかない。
もし劇中にガブリエルが存在しなかったら、物語は成立しない。荒巻が言ったようにバトーはどんどん「失踪する前の少佐を思い出す」存在へと変貌して行っているのだ。そのバトーを未だ人間としてつなぎ止めているのは、犬を飼ってると言う事実だけ。
これは又、同時に我々にも問題を突きつけている。“本当にあなたの見てる世界”は、確実ではない。あなたはそんな不確かな存在でしかない。
だったら、あなた自身が“存在する”事を求めなさいと。そう。バトーの劇中の台詞。「自分が生きた証を求めたいなら、その道はゴーストの数だけある」。これは「あなた自身の“存在する”方法を求める方法があるはずだ」。と言うメッセージとして受け止められるはずだ。
これはおそらく押井氏自身の今のアイデンティティが犬にある。と言うことと無関係では無かろう。彼は『Avalon』撮影において、痛風のためにギブス生活を余儀なくされた時、まず何を求めたかというと、犬、しかもバセットだったという。かつて虚無を描くことにおいて私のあこがれであった人は、虚無を越えた現実感覚を手にしていた訳だ。
…ちょっと暴走が過ぎたようだ。劇中の具体的なことに戻ろう。
一回観ただけで何が分かる?と言われればそれまでだが、一回目に与えられるイメージが一番強いから、敢えていくつか言わせていただこう。
まずバトーがいつも行く店で電脳ハックされたシーン。ここでバトーは右腕ばかりを撃たれている(予告編で繰り返し流された映像だ)。それで面白いのだが、右腕を撃たれている瞬間に、絶対左手が何をしているのか、描かれていないのだ。電脳ハックされた瞬間、バトーはおそらく片腕だけしか関知していない。もう一方の腕は勝手に動いてる。バトーの右腕を撃ったのは、ハッキングによる幻想ではなく、実は自分の左手で撃ってるんじゃないかな?
バトーは素子電脳の世界に行った後、普遍化した後でも、自分を観てくれることをよく知っていた。それが彼の言う「守護天使」なのだが、キムの屋敷での無限ループに陥った瞬間にそれがはっきりとしている。屋敷に踏み込んだ時、トグサには見えてない幻想をバトーだけ観ている。3DCGのなかに、そこだけ浮かんで見える三つの物体。一つはaemethと並べられたカード。二つ目はバセットハウンド。そして三つ目は前作のラストでバトー自らが素子に与えた少女義体。これらは、カードは事の真相をバトーに告げるメッセージとして。バセットはバトーを現実に引き戻すため、そして少女義体は、バトーが守られていることを実感させるために。虚偽の空間の中で、これがバトーに現実を認識させる役目を果たしていることは確実。そしてループの2回目、メッセージに変化がある“aemeth”というカードの内、“a”と“e”がずらされている。“meth”と言うメッセージに変わっている。ここでバトーは事の真相に気付く訳だが(中世ユダヤ教のカバラーの教義でゴーレムというのがあって、と言う説明が加えられてる)、問題は3回目。そのメッセージ自体が変化している“2501”と。これは前作『攻殻機動隊』で、素子が最後にバトーに語った言葉「2501?それ、いつか再開する時の合言葉にしましょう」という台詞に適応している。ここで私も理解したよ。ここに素子が出てくる!完全な伏線になっている訳だ。
本来素子はバトーの前に姿を現す必要は無かったはずなんだ。この電脳化された世界にあって、半ば神に近い存在となった。それが敢えてバトーの前に姿を現したのは、その約束を果たすためであり、そして“いつもあなたのそばにいるよ”という意味だったのかな?
単にサービスで登場した訳じゃなかろう。これがバトーにとって、必要だったから。彼女と接触することによって、バトーは逆に現実感という奴をはっきり意識した訳だから。 そしてラストシーン。トグサは自分の家にバトーを招く。そこでトグサの娘が登場するが(前作では登場こそしてないけど彼女はまだ赤ん坊だったはず。現実に時が流れていることを示しているのかも)、このシーンが実は観た瞬間は嫌だったんだが、改めて考えると、ここがあるからこそ、バトーははっきりと現実への帰還を果たすことが出来たのだろう。
ここまで我慢してつきあって下さった方のために、言葉を贈ろう。
「二度観る必要があるんだ」(by『トーキング・ヘッド』(1992)。一度目は映像の波を素直に楽しんだ後、再見した時に、考えながら観て欲しい。
(些細な書き直しにて)
その後、DVDを購入(私はオルゴール付きのDOG-BOX)。これを自宅の5.1ch環境で再見…驚くほどの音響。よもや映画館よりも自宅の方が音が良いとは…
是非これはDVDで、しかも音響のしっかりした部屋で再見して欲しい。どれほど本作が凄い出来なのか、感じることが出来るはず!と言うか、これを体験して初めて、この作品の本当のおもしろさが分かる…当然何度も観ることをお勧めする(笑)。観るたびに新しい発見がある。
…この書き直し部分はあるコメンテーターの発言に触発されて。
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