[コメント] キル・ビル(2003/米=日)
刀ホルダー完備の旅客機が血のように赤い夕日をバックにぶっ飛ぶシーンのネタ元は『吸血鬼ゴケミドロ』、ザ・ブライド(ユマ・サーマン)が見下ろす東京のミニチュアは『ゴジラ×メカゴジラ』の使い回し――このシーンがあったから、俺には見える。
本人による「(あのシーンは)イシロー・ホンダへのオマージュだよ!」(以下、Q・Tの談話は劇場用パンフレットから抜粋)、「最強ヒロイン地球最大の決戦!東宝の怪獣映画みたいだろ?」、「オレが描く東京は『ゴジラ』の東京だ!」などと言った談話や、このシーンのシナリオに「東京の街を小さく見せ、ザ・ブライドが東京の街を破壊しにきた巨人のように撮影する」ときっちり書き込まれていただとか、ユマやダリル・ハンナに『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』を見せ、「君たちふたりの対決は、こういう感じでね!」と告げたといったエピソードを鵜呑みにするまでもなく、俺には見える。
大向こうの観客の通念も、過去三本の長編で見せてきた演出の妙も、この映画の前半では入れていた人物描写も遙か彼方に取り残し大暴走する凄絶なバトル・シーン、あのクライマックスにおける「観客」の取り残し方は怪獣バトルのピークが「人類」を無力な傍観者に追いやる瞬間に限りなく似ていた。そう、俺には見えるのだ――タランティーノの脳内で、おのおの壮絶な過去を背負ったザ・ブライドとオーレン・イシイの対決が深く深く突き詰められる中で、やがて両ヒロインのバカげたスケールがちんけなリアリズムをバリバリ食い破ると、身長50メートルまでむくむくと巨大化していき、逃げ惑う群衆を踏み潰し、防衛隊を蹴散らし、東京のビル街を火の海に沈めながら、血みどろのバトルを始めてしまったその瞬間が!
普通の人間の脳味噌は膿んでもいない限り復讐ものと怪獣映画を結びつけたりなんかしない。だがタランティーノは、自らが書き綴る物語の線上に『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』が降って湧いた時、何の疑問も抱かなかったはずだ。揺るぎない必然性を噛みしめながら、自信満々で演出意図を説明するべく、二人にあの映画を見せたに違いない。
サンダとガイラが取っ組み合う有り様を観たユマとダリルは、何の冗談だ? と思ってタランティーノの方を振り向く。すると、あの生まれつき冗談だが本気だかわからないようなギリギリの顔がいつにもまして冗談だが本気だかわからないようなギリギリの感じになっている。振り返って悩む。「いったい、どうしろって言うのよ? わからない、この男もサンダもガイラもさっぱりわからない……」
でも俺にはわかる。そこで引いてしまう、つまらない女優じゃない。ユマもダリルも或いはリューシーも、タランティーノの求めるところに寄り添おうと足掻いたに違いなんだ。たとえ彼女達が理解しきれなかったとしても、彼はそれさえ飲み込んで、描くべきと信じたものを何のエクスキューズもなくスクリーンにぶち込んで、記者会見でこう謳うんだ、「僕は全人類に見てもらおうと思って、映画を作っている!」――したり顔で頷いてくれる階層に向けて作る作家とも、抜け目なく最大公約数を計算する商売人とも、ポスト・タランティーノなんて呼ばれた連中ともまったく違う。彼の映画には、いらないものも、足りないものも何一つ無い。怪獣と化したザ・ブライドとオーレン・イシイが殺し合いの果てに運命の瞬間を見据え、お互いをほんの一瞬憎しみから解放し、片言の日本語で認め合う瞬間に涙が出るほど痺れるんだ!
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