★4 | フレンチ・コネクション(1971/米) | 過去の映画文法に背を向け、つまりは、社会通念や倫理を無視して「逃げる者と追う者」の純粋性への特化を試みているという点において、娯楽活劇分野でアメリカン・ニューシネマの名に値する数少ない佳作。理由や理屈なきポパイの猪突猛進ぶりは70年代の気分。
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★5 | 時計じかけのオレンジ(1971/英) | 「歓喜の歌」に導かれる邪悪な衝動。自己のちっぽけな欲望の充足に、思わず口ずさむ「雨に唄えば」。ひとの心の端ともう片方の端を行って帰ってくるアレックスに、人間らしさは見出せない。人は罪悪と正義の間を不安定に、彷徨い続けるしかないのでしょう。 | [投票(4)] |
★4 | 暗殺の森(1970/伊=仏=独) | この野郎。てめー、さしずめインテリだな! | [投票(5)] |
★4 | ラスト・ショー(1971/米) | 終焉まぎわの停滞のなかでは、人との関係は疎になるが人への関心は密になるのだろう。だから時代の役割を終えた片田舎の男たちは、たかが高校生のフットボールに執拗にからみ、女たちはそれぞれの想いのなかへと視線を彷徨わせ時間をやり過そうとするのだろう。 [review] | [投票(1)] |
★3 | ホスピタル(1971/米) | 公民権運動やら、ベトナム反戦やら、ヒッピーやら、フリーSEXやら、石化資源の枯渇問題やら、ドラッグ問題やらが一気にあだ花咲かせた70年前後の価値混乱期に、アーサー・ヒラー監督があの『ある愛の詩』の次に撮ったのだからますます話が混乱する。 | [投票] |
★3 | コールガール(1971/米) | 『ひとりぼっちの青春』と本作、すなわち70年前後のジェーン・フォンダは瞬間的にではあるが時代そのものと同期していた。だからこそゴードン・ウィリスのカメラも、「都会」ではなく「女」を通して時代の孤独を捉えれることができた。 | [投票] |
★3 | ゴッドファーザー(1972/米) | マーロン・ブランドやアル・パチーノは確かに素晴らしいのだが、それが“上手な演技”としてしか伝わってこない。暴力への自信と過信、個々人の苦悩や葛藤、組織のかけ引きといった本来軸になるべき視点に物足りなさを感じてしまう。 | [投票(2)] |
★4 | ブルジョワジーの秘かな愉しみ(1972/仏) | 初めは笑って済ませられる他愛の無い悪戯も、執拗に繰り返すことで相手にボディブローのようにダメージを与えうる。せせら笑いながら繰り出されるブニュエルの呪いのような魔手。
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★4 | エクソシスト(1973/米) | メリン神父が魔像と対峙するイラクの灼熱感。カラス神父が心身ともに彷徨うワシントンD.Cの寂寥感。母親が途方にくれる閑静な館の日常感。娘が幽閉される階下から見上げた部屋の閉塞感。この作品の怖さは感情の揺さぶりと混濁に魔物が入り込むところにある。
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★4 | さらば冬のかもめ(1973/米) | ベトナムの銃火を遥か彼方に聞きながら、水兵という身分にすがる食い詰め者たちの束の間の自由は、容赦なき寒風にさらされる。貴重な時間を酒びたりで無為に浪費する彼らは、実は海軍も刑務所も大差ないことを知っているのだ。でも、そんな自由でも自由なのだ。 | [投票] |
★3 | ペーパー・チェイス(1973/米) | スーザンとハート(ティモシー・ボトムズ)の出会いや、学生たちの右往左往ぶりが形式的で退屈だが、リンゼイ・ワグナーの美しさに免じて許す。法学バカの権化教授(ジョン・ハウスマン)の頑固ぶりが、最後には何だか微笑ましくなり共感すら呼ぶ。 | [投票] |
★5 | ペーパー・ムーン(1973/米) | コントラストの強いモノクロの視界がフィルターとなってリアルな感覚を浄化してくれる。だから本当は悲しい現実に溢れた物語のはずなのに、こんなにも温かく心地の良い世界が出現するのだろう。まるで自分にとって最良の記憶だけが心の中に蓄積されていくように。 | [投票(4)] |
★3 | セルピコ(1973/米) | ズルズル、ダラダラとエピソードが続くので、いつの間にか主人公が悩み、いつの間に怒り、いつの間にか怯え、いつの間にか奮起し、いつの間にか話は終わる。長いだけで味の薄いトコロテンのよな映画。 | [投票] |
★5 | スティング(1973/米) | 心躍るピアノの旋律が、退廃と享楽が入り混じる30年代の憂鬱を心地良い世界へと変えていき、達者な主演者と脇役たちが観客の心をもてあそぶ。社会も人の心もすさんだ時代を逆手にとって、極上の娯楽作に仕立ててしまうアメリカン・エンターテインメントの底力。 | [投票(1)] |
★5 | アメリカン・グラフィティ(1973/米) | あふれる街の光。一夜の狂騒。やがて訪れる泥沼の戦争を、まだアメリカの青年達は知らない。 | [投票(10)] |
★4 | 叫びとささやき(1972/スウェーデン) | 嫌な映画である。ベルイマンの真摯な悪意が、フィルムにとり憑いたかのような赤と白と黒。しかし目をそむけるどころか意識がスクリーンに吸い寄せられてしまう。きっとそれは、心の底に隠したはずの不安を暴かれるマゾヒスティックな快感を誘うからだろう。
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★3 | チャイナタウン(1974/米) | 仕立ての良い服が体にしくり馴染むような心地よさで物語りは語られ、さりげなく調理された活きの良い素材のように役者たちの味が染み出る。その華美さを排除したオーソドックスな演出が、チャイナタウンで迎えるエンディングの映画的純度をより高めている。
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★4 | アリスの恋(1974/米) | アリスの一つ一つの選択に共感が持てるのは、彼女が自分で考え行動できる女だから。そして少し離れた所から見つめるような、スコセッシのカメラアイが余分な感情移入を排除するから。 | [投票(1)] |
★4 | 映画に愛をこめて アメリカの夜(1973/仏=伊) | 巷をしばし離れ、ひととき集った大の男と女が、欲望と職務の微妙なバランスのなか、しばし擬似世界の創造に無邪気に没頭する後ろめたさを伴った快楽とは、スタアの写真を盗んだ少年の日の制止の効かぬ衝動の記憶の延長に存在する密かな快感の再確認。羨ましい。 | [投票(1)] |
★5 | ゴッドファーザーPARTII(1974/米) | マイケルの先鋭化と孤独。そこに張り付く影のように描かれる父・ビドーの屈折した青春。親から子、子から孫へと愛情とともに受け継がれる運命の憎悪の血。ビトーは憎悪の裏返しである信頼を核に結束を作り、マイケルは憎悪に根差した疑念を糧に結束を守る。 [review] | [投票(9)] |
★3 | レニー・ブルース(1974/米) | レニ―は、厚化粧で取り繕った欺瞞を剥がすため、禁じられた言葉を速射砲のように放った。ボブ・フォッシーは、ドキュメンタリー風の映像を速射砲のように放つことで、その生涯の再現を試みた。前者の言葉は信実、後者の映像は作り物。その差は大きい。 | [投票] |
★4 | ヤング・フランケンシュタイン(1975/米) | ハリウッドクラシックの画調を端正になぞる画作り。このクソ真面目さこそがパロディの基本であり本作の笑いを支える。知能(対話)と女(SEX)が常識人を育むというメル・ブルックスの怪物への愛は、そのまま人間愛。平凡なようでいて、なかなか奥深い真理。 | [投票(1)] |
★3 | 狼たちの午後(1975/米) | 大した覚悟もなく、現状さえ変えればなんとかなるさと飛び込んだ先で、そんなに甘くないことを始めて知る。対峙した敵の周りで無責任にはやし立てる民衆。待っているはずの妻や恋人の心は離れ、行く先どころか帰る所もまま成らない。銀行もベトナムだった。 | [投票(9)] |
★4 | カッコーの巣の上で(1975/米) | まず反体制があるわけではない。体制はいつしか硬直し殻を作る。殻の中では暖かな風が吹き抜け、穏やかな波の音が日々鳴り続ける。やがて人々は、その心地良さの中で思考を止め、全てが止まる。それを危機として嗅ぎつける人間の本能を反体制と呼ぶ。 [review] | [投票(4)] |
★3 | フェリーニのアマルコルド(1974/仏=伊) | 過去を語るとき、起こった事実などに意味はなく、今その出来事がどのように見えているかの方がはるかに重要である。その思いによって綴られた幻想こそ、人の幸福の度合いが垣間見える心の窓であり、その部分においてフェリーニはいたって幸せそうに見える。 | [投票(6)] |
★5 | バリー・リンドン(1975/米) | 目に映った光景とその感動を記憶にとどめるために人間が用いた最も古い手段が絵画だとしたら、人にはそれを動かしたいという願望が常につきまとうのかも知れない。キューブリックはバリーの人生にまず絵画としての光と影を与え、そして次に動きを与えた。 | [投票(3)] |
★4 | ハリーとトント(1974/米) | 家族崩壊の予感のなかポール・マザースキーは、すがるような眼差しを古き良きアメリカの体現者である老人たちに向け、生きるための教えを請おうとする。アート・カーニー達は頑固さの中に秘めた確かな信念で、それに静かに優しく応える。 | [投票] |