★4 | ミッドウェイ(2019/米=中国=香港=カナダ) | 1937年、日米開戦以前の日本から始まる。 [review] | [投票(3)] |
★5 | 風の谷のナウシカ(1984/日) | 画面の内外が絶え間なく断続する編集のキレを見せつけられるにつけ、編集とは削る作業だと感じさせられる。流動する世界そのものの全体の中から削り出すべきところだけを削り出し、その一連の断続が広大な世界の断片に宿るなけなしの真実の姿を黙って映し出す。皆が皆、生存圏=生存権を脅かされることで否応ない修羅場が生まれる。それでも一寸の蟲にも五分の魂を見出してしまう感受性ありきの世界。 | [投票(3)] |
★3 | さよならくちびる(2019/日) | 心理的に去来する挿話の暗黙な了解が、現在の三人の「共犯関係」を担保する。当たり前にありふれた風や光が、ありふれた日常としての三人の旅程を暗黙に祝福する。やりとりされる言葉は核心に触れるようで触れえず、然しかわりに繰り返し嘯くように唄われる「さよなら」が三人の心をむしろ三人のもとへと送り返す。なんとも言い難い、けれどたしかに息衝く人と人の間(ま)の妙。〔3.5〕 | [投票(3)] |
★3 | 愛しのアイリーン(2018/日) | 「人間関係は心の戦争」(原作台詞)。「冷たい戦い」ならぬ「熱い戦い」としての活劇的メロドラマ。つかず離れず、微妙に揺動し続けるハンディキャメラはそこに“いる”ことで群像を等価に、然し決して冷淡ならず映し出す。飽くまでも被害者ではなく加害者として己を演じ続ける人物達の相克が本音も建前も欲と金の奔流の中に消し尽す。そして唯一残響することになる、なけなしの告白。〔3.5〕 | [投票(3)] |
★4 | 寝ても覚めても(2018/日) | 心理を微分するのでなく言動を積分することで、人物と物語を描き出す。人物の言動が心理的脈絡を追い越すように繰り出され、その断続が全体に瀰漫する不穏、その不断なサスペンスと波及し合うことで物語が紡がれる。心理的人物の表象ではなく、心理的現実そのものとしての映画。だからこそそれは、震災の変動をたんなる歴史的事実ならぬ、普遍的な世界の不穏そのものの表出のようにも描き出す。だからこその、男女の邂逅。 | [投票(3)] |
★3 | 万引き家族(2018/日) | 点と点が線で結ばれ、線と線から面が生まれ、面と面が組み合わされて立体となる。一見末節同士でしかないような事象相互によって「社会問題」のモジュールが出来あがる。だがそこに内実を感じない。苦悩を生きて告発する中心的な肉体を感じない。映画的に彼ら彼女らを結びつけるのが互いの視線の絡み合いであるならば、ラストショットは映画から現実を睨み返すような逆接的な直視こそ欲しかった。〔3.5〕 | [投票(3)] |
★5 | 火垂るの墓(1988/日) | 無数の蛍の火は、無数の命の火で、それは朝になれば無惨な無数の骸になり果て、まとめて葬り去られるほかない。兄妹は赤い炎につつまれ、あるいは自らが赤い炎そのものとなって闇の色、光なき光(赤色)として灯り続ける。その社会、その時代、その関係、その自分で出来うるかぎりに精一杯生きて、そして死んだ。その事実。それだけの映画。最良の宮沢賢治のような戦争文学映画。 | [投票(3)] |
★4 | 孤独な場所で(1950/米) | 照明で目に焦点を当てる手法は色の黒みと陰の暗さが映えるモノクロームの世界でこそ活きる。それがボガードとグレアムの心象を暗黙に対照的にあぶり出すが、とくにグレアムのそれは、慕情(信)と猜疑(不信)の狭間に宙吊りにされる曖昧さを湛えて、ふと『裁かるるジャンヌ』のファルコネッティの肖像をさえ想い起こさせる。映画の映像は実在と仮象の狭間で痙攣的に蠢動する瞬間に最も艶めく。 | [投票(3)] |
★3 | スター・ウォーズ 最後のジェダイ(2017/米) | 何より女性、黒人、アジア系、そして孤児達。周縁的な出自の人物群像による代替わり劇。総花的にあれもこれもの感は募れど、素朴なヒロイズムへの距離感を担保しつつ、それでも「物語」への率直な希求をも一貫せんとする。必要なのは(英雄でなく)伝説(=物語)。〔3.5〕 | [投票(3)] |
★3 | アウトレイジ 最終章(2017/日) | 自殺ならぬ自決。自分のための他人、他人のための自分。生還以後の北野武のモラルはつまるところはやはり贖罪としての「献身」。「若い衆やっちゃった…」。自作自演のスター監督兼俳優にだけ許される『許されざる者』の末路。演者達の活力の欠乏がむしろ作劇の負の活源として画面を跳梁する。笑って泣く道化の映画。〔3.5〕 | [投票(3)] |
★3 | 新感染 ファイナル・エクスプレス(2016/韓国) | 「走る(人海ならぬ)人塊」と、その最突端としての「走る密室」のモチーフが、追走と脱落の一貫したアクション構造を支えきる。数ある難関を越えゆくに活劇的アイデアは不足なれど、さすがは韓国とも思わされる豪腕・駿足の体力勝負で意気さかんに中央突破に懸けゆく作劇はいっそ潔い。ためにラストに至る束の間のロングショットも不意にエモーショナルたる。勝ち。 | [投票(3)] |
★4 | 白夜(1971/仏=伊) | 人物が肩越に振り返る仕草が多い。しかしそれによって視線の印象が強調される。もっと言えば、人物から人物に投げかけられる感傷的関心こそが強調される。若い女が鏡に映る自身の裸身を見るその視線もまた肩越、見られる体と見る顔とがショットとして分割されることで、若い女の自身への感傷的関心=ナルシシズムが印象づけられる。ブレッソン的身体は自然な統合を生きない。 | [投票(3)] |
★4 | アデルの恋の物語(1975/仏) | 「情熱的な恋愛とその成就」と言う一人の才気ある娘が夢想した自己実現の物語は、「偉大過ぎる父親」と言う桎梏に暗に縛られ続け、遂に挫折する。娘はその名前を無言のまま鏡の表に指で描き込み直ぐに揉み消す。手紙が介したその「物語」の宛先にこそ、娘が拘り続けた本当の相手がいた、と言う物語。 | [投票(3)] |
★3 | 関ヶ原(2017/日) | ビジネスマンや経営者の群像劇に見えてしまうのは、やはり「間」や「タメ」を敢えて排したのだろう演出による。その為に失われたように見えるのは人物同士の内実あるドラマ。象徴的なのは主役たる家康と三成の間にさえまともな視線の切り返しがないこと。それも“敢えて”だろうが、結局決定的場面ナシの印象に至る。 | [投票(3)] |
★3 | 散歩する侵略者(2017/日) | 言語の本質を前提した「概念奪取」という言語的段取にしかならないアトラクションは非映画的だが、こと「愛」という抽象を前にしたとき空転せざるを得ない認識がむしろ「愛」の観念的絶対性を際立たせてしまう、その逆説が作劇を意外に収斂させる。いわば言語の唯物論的抽象性が事象そのものの認識になりかわる。「愛」こそすべて(!)。 | [投票(3)] |
★4 | 冬冬の夏休み(1984/台湾) | 窓や出入口がことごとく開け放たれてあるのは、これが夏の映画だからではなく、端的にそういう映画であるからだ。風と光に祝福された「真昼の映画」。だから唯一の夜は、生死の境を越えるべくしての夜となる。横たわり眠ること、そこから目覚めて起きることは、死と再生の謂いとなる。かつて「日本」だったその土地の映画。 | [投票(3)] |
★3 | 肉弾鬼中隊(1934/米) | 未来ある青年、妻子ある兵士、隔たりなく倒れていく戦場の非情。狂気と自棄に駆られていく男達。何が悪いって、砂漠の灼熱が悪いって話。なのにそれでも陰惨な印象を覚え難いのは何故なんだか。足りないのは、アラブ兵の「顔」。ラストのサーベルの輝きこそは「映画」でありジョン・フォードの刻印。 | [投票(3)] |
★4 | フレンチ・カンカン(1955/仏) | 「豊」かな「色」と書いて「つや」と読む。ジャンはオーギュストの息子、ということを実感させられるつやつやした色彩映画。映画の服飾というのは役者の第二の皮膚なのかと思わせられる肌理。女達の脚、脚、脚が造花のようなひだひだのスカートの中で元気よく跳ねまわる。色で光を感じる。 | [投票(3)] |
★4 | 秋刀魚の味(1962/日) | 杉村春子の登場と、その直後の怖ろしい表情。加東大介の敬礼と行進と軍艦マーチ。機械人形じみた岩下志麻。セリフの執拗なリフレイン。滑稽、それ故の残酷、あるいは不可解。これを狙ってやっているのだ(ろう)から、凄まじい。ついでに、最後に映し出されるアレ、これまたなぜそれがそこにあるのかが不可解。ある意味、完璧な(運命的)遺作。 | [投票(3)] |
★3 | ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル(2011/米) | 何も言うことがないというくらい面白い。…ほんとに何も言うことがない。見終わって、そして忘れる。どこかしら空騒ぎの感がなくもなく、再び見たいとも思わない。言わば「ミッション終了!」の一言で括れてしまうが如き、妙な虚ろ(?)さ…。 | [投票(3)] |