ウディ・アレンの映画ファンのコメント
ぽんしゅうのコメント |
それでも恋するバルセロナ(2008/スペイン=米) | 臆病さをビッキーは理屈で、クリスティーナは奔放さでガードする。ガードとは傷よけ。アートも恋愛も本質は、動物的生命力の発露であり、洗練より素直さ、知性より感情の賜物。それを一番知りながら上手く傷をよけてきたアレンの、これまたスマートな敗北宣言。 | [投票(1)] | |
カイロの紫のバラ(1985/米) | 現実から逃れたい一心で女が見つめた光の中の男はその視線にまだ見ぬ現実の世界を感じ光の世界から逃避したあげく現実の世界の分身と制度に追いたてられ、信じるものは「神?脚本家?」とつぶやき光の中へとまい戻り現実をなくした女は呆然と幻光を見つめる。 | [投票] | |
007/カジノロワイヤル(1967/英) | バカバカしいと言ってしまえば、007シリーズは全てバカバカしいのですが、私はこちらのバカバカしさの方が数段好きです。だって健全ですもの。 | [投票] | |
ジゴロ・イン・ニューヨーク(2013/米) | 夫婦関係の心の枯渇を金銭による肉欲の充足で補うインテリ・レズビアン(シャロン・ストーン)。死別による物理的な愛欲の欠落を、宗教という外的規範で埋めようとする未亡人(ヴァネッサ・パラディ)。朴訥なジゴロは「花」に水と光を与え生気を回復させる。 [review] | [投票(4)] | |
ローマでアモーレ(2012/米=伊=スペイン) | 別に新しいものは、何も無い。あるのは老練なマンネリズムだ。シャワー・ネタの下らなさ。パパラッチ騒動のナンセンスぶり。新婚カップルの顛末(特に奥さん)の巧みさ。建築家の自虐回顧ぶり。相変わらずの皮肉セリフの意地悪さ。安心して浸れるアレンワールド。 | [投票(2)] | |
おいしい生活(2000/米) | 退屈しのぎを自分さがしと言い替えて、せっせと趣味教室に通いつめ、2泊3日の週末旅行に出たところで、体よく幸福が落ちている分けはなく、フレンチィ(トレイシー・ウルマン)のように寄り添う相手と価値が共有できること、それそのものが幸福なのです。 | [投票(2)] | |
タロットカード殺人事件(2006/英=米) | アレンとヒロインが丁々発止を繰り広げる定番パターンは大好きだ。そこには、役者アレンの十八番である男の身勝手さ、意固地さ、ひ弱さの噴出の裏に、自分でもコントロール不能に陥った「愛情」という情を前にした男の戸惑いがいつもあったからだ。 [review] | [投票(4)] | |
ハンナとその姉妹(1986/米) | 男と女の間を流れていく日常の出来事を、ラベルでも貼るかのように分類し切り出し整理された脚本の判りやすさがこの映画の全て。時間の経過とともに移ろう登場人物たちの心境変化はそれなりに面白いのだが形式的で細部が大雑把なのがちょっと物足りない。 | [投票] | |
スリーパー(1973/米) | チャップリンを彷彿とさせるアレンのドタバタぶりと時代を皮肉るギャグ満載で、70年代の『モダン・タイムズ』と言いたくなるほどスパイスの効いた時代性風刺コメディ。自動調理器で巨大化した軟体食料との格闘やニクソン大統領評には大爆笑。 | [投票(1)] | |
ブロードウェイのダニー・ローズ(1984/米) | 芸ではなく芸をする人、すなわち素の人間に加担してしまうという点でダニー・ローズ(ウディ・アレン)はマネージャーとして三流なのだが、おせっかいな友人としては稀にみる才能の持ち主である。不器用な男の、懸命な哀切さがモノクロ画面によく似合う。 | [投票(1)] | |
インテリア(1978/米) | 多少のエネルギーを使えば夫婦の間ならば、強引にではあるが解決できる問題も、親子となると根が深すぎる。気が重い。 | [投票] | |
メリンダとメリンダ(2004/米) | 本来、二律背反する物語が融合離反を繰り返し観客の感情を幻惑するという狙いなのだろうが、提示される二つの物語がかつて何処かで見たいつものアレン節のままで、中途半端なパラレル感しか残らない。最後の喜劇作家の訳知り台詞が企画倒れへの言い訳に聞こえる。 | [投票] | |
誘惑のアフロディーテ(1995/米) | 女が実に魅力的。ミラ・ソルヴィノの純心さゆえの罪なき下品さも微笑ましく可愛いが、キャリア志向のヘレナ・ボナム・カーターの懸命さに漂うアンニュイなしぐさも捨てがたい。何のことはない、アレンと俺と、女の趣味が同じだけなのかもしれないが。 | [投票(1)] | |
マジック・イン・ムーンライト(2014/米=英) | 完全犯罪の謎解き的興味を持たせつつ、本人ですら計り知れない男と女の奇妙な恋愛の心もちを、いたって分かりやすくユーモラスに語ってみせる、これぞまさにアレン・マジック。C・ファースの嫌味をさらりと受け流すエマ・ストーンの天真爛漫ぶりがキュート。 | [投票(1)] | |
マッチポイント(2005/英=米=ルクセンブルク) | 人生にとって本当は幸運とは何なのだろうと考える。例えば幸運にも罪が露見せず罰を逃れた者は、その幸運を心の底から喜ぶことが出来るのだろうか。そもそも人生において、罪を逃れる為に自らの運を賭けなければならないとうことほど不運なことはないのでは・・・ [review] | [投票] | |
カメレオンマン(1983/米) | カメレオンマンが主体を持ち得ないことの悲しみと滑稽さもさること、その奔放さに「世間」が無邪気な喝采を贈るさまは、まさに「世間」の潜在的主体放棄願望の象徴であり、主観なき客観の危うさを突くアレンの危惧と揶揄の入り混じったメッセージは強烈である。 | [投票] | |
泥棒野郎(1969/米) | アレン自身が自演で喜劇を撮るにあたって、常套手段とはいえ、擬似ドキュメンタリーを採用し、役者アレンと距離をとったことが大成功。気負いや、てらいのないシンプルなギャグの連発に爆笑。音楽のセンスも作品の完成度を上げている。 | [投票] | |
さよなら、さよならハリウッド(2002/米) | かつての気負いや嫌味が薄まって、歳をとるほどに子供がえりしているようなアレンの素直な茶目っ気には舌を巻く。相変わらずのヴァル(ウディ・アレン)の豹変芝居と、それを軽くあしらうエリー(ティア・レオーニ)とのやり取りはまるで子供と母親。 [review] | [投票(1)] | |
アニー・ホール(1977/米) | 政治の時代であった50・60年代を経て75年ベトナム戦争終結。目標喪失状況の中で空回りしつつ、苦笑いするしかなかったインテリ・ニューヨーカー達の気分とウディ・アレンの作風が同期し、普遍性の域まで達した“時代”が生んだ映画。 | [投票(4)] | |
ラジオ・デイズ(1987/米) | ラジオという見えないトンネルで結ばれた生活者たちと社会の様相が活き活きと伝わってくる。アレン映画の中では穏やかな気分で観ていられる一本。ミア・ファローの猫のようなミャーミャー声が最後には落ち着いた「女」の声に変わるのが笑えた。 | [投票(1)] | |
女と男の観覧車(2017/米) | ブリキ玩具のような毒キノコ色のコニーアイランド。どす黒いオレンジ色に染まる女の部屋。窓外には観覧車が血を滴らせた骸骨のような姿をさらす。いつしか女を包む希望もどきの青ざめた光も生気なく虚ろだ。女は自分の閉塞と願望の振れ幅の極端さに気づいていない。 [review] | [投票(5)] | |
恋のロンドン狂騒曲(2010/米=スペイン) | アンソニー・ホプキンスの狂い咲きSEXと、ジェマ・ジョーンズの依存的自己防衛。時間を持て余す老人ほど面倒なものはない。額に刻まれたナオミ・ワッツのミミズシワと、醜くたるんだジョシュ・ブローリンの腹を哀れみつつ笑うサディズム的快感。 [review] | [投票(2)] | |
夫たち、妻たち(1992/米) | 愛とか信頼とかのごたくは、所詮は事後の都合で、男と女がくっつくのは、どだい互いのダメな部分同士が欲望を介して呼応し合っているだけで、男であろうが女であろうが、その人の最良の部分が、互いの相手以外に向けられがちなのは、現実世界でもよく目にする。 | [投票] | |
マンハッタン(1979/米) | 心のゆとりをなくした男と女が、最後にすがるのは肉体の結びつきによる虚しい確認行為。疲弊した都市に蝕まれた精神の復興を、愛するマンハッタンに託したアレンの抵抗。もがく姿が悲しくも美しい。 | [投票] | |
地球は女で回ってる(1997/米) | アレンの『野いちご』は露骨で騒々しい。そして、それで何が悪いのだとばかり、思いどおり成就しなかった現実をあれこれ悔やみこそすれ、決して原因について反省などしない。『スターダスト・メモリー』から17年。ガキのまま初老の域に達した男の居直りの傑作。 | [投票(1)] | |
スコルピオンの恋まじない(2001/米=独) | 見る側に何の努力も強いることなく、すんなりとお伽話に引き込んでしまうまさに催眠術。物語から配役まで「そんなこたぁーねえだろう」という設定を、だいの大人が我を忘れて本気で楽しめるのはアレン映画を置いて他にはないだろう。主演二人の掛け合いも絶妙。 | [投票(1)] | |
セレブリティ(1998/米) | キャラクターとしてのサイモン(ケネス・ブラナー)がくどいのは一向にかまわないのだが、女たちを巡る話しの展開がくどいのが鬱陶しい。脚本が未整理のせいだろう。サイモン(=アレン)的独善の間抜けな面白さは、シャープで大胆な物語展開のなかでこそ光る。 | [投票] | |
セプテンバー(1988/米) | 欲望秘めて亡霊のごとく山荘内を徘徊する登場人物たちのさまは、なかなか思わせぶりで何がおこるのやらと期待は高まるものの、それ以外にはどこにも映画的工夫が見当たらず、空疎なセリフが終始飛び交うばかり。舞台劇の中途半端な映像化といった観がありあり。 | [投票] | |
ウディ・アレンの夢と犯罪(2007/米=英=仏) | 良質の悲劇とは結末のいかんに係わらず、そこへ至らざるを得ない「のっぴきならなさ」の強度に依拠するもので、その点において兄弟をとりまく伯父や恋人、さらには階級社会の縛りの構築に甘さを感じる。よく言えば普遍的、難を呈せば何を今さらな擬似古典悲劇。 | [投票(2)] | |
アリス(1990/米) | 主体性の無いダメ女をミア・ファローが好演。マザー・テレサまで持ち出さないと話がおさまらないのにはあきれますが、これもアレンのジョークでしょうか。 | [投票] | |
スターダスト・メモリー(1980/米) | 自分を演じることで創作し、世間はそれに無邪気な喧騒で応える。自身も過去から連なる現実の一部であるという当たり前の事実から逃れようと、また同じことを繰り返す。洗練されたショットの積み重ねと、連発される無意味な言葉が生み出すリズムが心地よい。 | [投票(2)] | |
マンハッタン殺人ミステリー(1993/米) | ダイアン・キートンも悪くないが、勝手に妄想ふくらませ、あきれる夫を前に一人で暴走する妻の役は、気ままな猫のような「ミャーミャー」声のミア・ファローで見たかったというのが本音。謎解きミステリーはとってつけたようで、おまけのようなもの。 | [投票] | |
ウディ・アレンの 影と霧(1992/米) | 幻想が人を駆り立てる・・・嫉妬、憧れ、愛情、怨み、猜疑、驕り、慈善、全て幻想? | [投票] | |
私の中のもうひとりの私(1988/米) | 「想い出は現在のものか、過去のものか」と問われても・・・己の負の部分が都合よく取り繕えたときが良い想い出、露呈されたときが辛い想い出なのでは・・・50歳にして、やっと自分の負に気づく生き方は幼すぎるし無責任でもある。 | [投票(2)] | |
ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう(1972/米) | 1.高貴な女としたい!、2.インテリの隠された純愛、3.イタリアンはどこでもOK、4.中流はなんでも穏便に、5.TVに出たがるアホウに観るアホウ、6.天才の孤独は限りなく“ふ・く・ら・む”、ときて7番目の話が結構こたえたりする今日この頃・・・ [review] | [投票(4)] | |
ウディ・アレンのバナナ(1971/米) | テレビレポーターによって、権力闘争はイベントに、セックスはスポーツに仕立てられ、姿なき大衆である視聴者に娯楽として消費されていくのだろう。ならば、権力欲より性欲に、暴力よりも女に、うつつを抜かす方が確かに正当で健全ある。 | [投票] | |
僕のニューヨークライフ(2003/米=仏=英=オランダ) | こだわりの男アレンが、20年かかって思い至った「行き詰ったら、こだわらず逃げればいい」というこだわりを、何かに憑かれたように20年前のアレンたるジュリー(ジェイソン・ビッグス)に執拗に説く初老男ドーベル(ウディ・アレン)のこだわりがアレン。 | [投票] | |
ミッドナイト・イン・パリ(2011/スペイン=米) | 知識(ウンチク男!)は「今」に安住するために過去に隷属するが、創作(悩める若き作家)は「今」を超えるために過去に敬意をはらう。過去とは実践者によって塗り替えられてきた「昔の今」の総称なのだから。画調、音楽、笑いのツボが好みで大満足の94分でした。 | [投票(1)] | |
教授のおかしな妄想殺人(2015/米) | 無為な「言葉」が沈殿したかのように、醜くぷっくり弛緩した腹の哲学教授。過去の「言葉」の堆積に無邪気に憧れて、肌も露わに健康美をふりまくお嬢さん女子大生。そんな二人の風体対比の妙。絶望に恋をする女と、脱思考に希望を見出す男の話。 [review] | [投票(1)] | |
サマー・ナイト(1982/米) | 役者ウディ・アレンほど、その風体が田舎の風景に馴染まない男もめずらしい。それは、想定しだいによってはコメディアンとしての強力な武器と化すのだが、一歩間違えればただの違和にもなり得る。この作品のあらゆる面の中途半端さを、それが象徴している。 | [投票] | |
ウディ・アレンの重罪と軽罪(1990/米) | 神・社会・家族・恋人。選択するための価値基準は人により様々。要はその試練を受け入れる覚悟とそれに慣れる時間が必要なのだ。 [review] | [投票] | |
ギター弾きの恋(1999/米) | エメット(ショーン・ペン)が見せる不適で自信に満ちた表情は、誉められたくてしかたのない子供のそれに似ている。才能の突出の陰に隠れて悲鳴を上げる依頼心を直感的に見ぬき、応えられるのは母性・ハッテイ(サマンサ・モートン)だけなのだ。 | [投票(1)] | |
カフェ・ソサエティ(2016/米) | 欧州行脚を謳歌したアレン帰国後初のNY回帰。相かわらず好調なハリウッド風刺にほくそ笑むも、起死回生“カフェ・ソサエティ”のざまあ見ろ効果はどこえやら。純情ボビー(ジェシー・アイゼンバーグ)は好青年のまま、もの分り良さげな「おとな」に成り下る。 | [投票(1)] | |
ブルージャスミン(2013/米) | ジャスミン(ケイト・ブランシェット)の鼻もちならない上昇志向は現実からの逃避にも見え、一方、妹ジンジャー(サリー・ホーキンス)の弛緩は向上心の意味すら理解できない現実肯定への逃避。対を織りなす成り行き志向が「懸命」を哂う笑えない喜劇。 | [投票(3)] | |
人生万歳!(2009/米) | アレンの原点とも言うべき皮肉なひねくれ幸福論だが、かつてのように彼自身が演じていたら、ボリスはもっと神経症的とげとげしさを呈しただろう。アレンの老練なゆとりが、ラリー・デビッド演じるボリスの厭世感に正等なポジティブさを与えていて妙に心地よい。 [review] | [投票] | |
レイニーデイ・イン・ニューヨーク(2019/米) | なんだこの爽やかな肯定感は。良い意味でアレン映画じゃないみたいだ。男と女を描いて相かわらずの“からかい”はあってもかつての皮肉や毒がない。そもそも古今東西、80歳過ぎの爺さんが20歳そこそこの恋愛模様を撮った例を知らない。ましてこんなに面白いなんて。 [review] | [投票(2)] | |
世界中がアイ・ラヴ・ユー(1996/米) | 惚れた腫れたのミュージカルなど、所詮は浮かれた戯れごとならば、いっそみんなで戯れようではないかとばかりに、出てくる奴らは女も男も浮かれっぱなし。憂鬱さは楽曲の敵だとばかりに、くりだされる歌とダンスの能天気ぶりがアレン特有の深刻さを吹き飛ばす。 [review] | [投票] | |
サン・セバスチャンへ、ようこそ(2020/スペイン=米=伊) | やぁ、楽し映画でした。現役世代に相手にされなくなった皮肉屋ニューヨーカーの成れの果てウォレス・ショーンの懲りない意固地さ。なんか可愛らしいじゃないですか。本人はマイペースでめげてないようだし、こんな爺さんになるのも悪くないかもと思いました。 [review] | [投票] | |
ブロードウェイと銃弾(1994/米) | 劇中劇の俳優たちの、したたかさに翻弄される新進劇作家デビッドの、無邪気で根拠のない自信とプライドを、一瞬にして叩き壊すチーチ(チャズ・パルミンテリ)の生き様が痛快で、そして泣かせる。創作活動とは本来、粗野で無心、無骨で一途なものだ。 | [投票(1)] | |
ウディ・アレンの愛と死(1975/米) | 『スリーパー』までとは一転、作品の前面に押し出される空疎な観念問答は後の『アニー・ホール』や『マンハッタン』登場を予感させるも、背景に選んだロシアやドタバタギャグとの断絶感はいかんともし難く消化不良で唐突が残る。 | [投票(1)] | |
ボギー!俺も男だ(1972/米) | 何の思想性もなく、ただただ画作りだけに専念する職人ハーバート・ロス監督だからこそ、かえってウディ・アレンの脚本が持つ可笑しみがアレン演出よりも素直に出てしまうという映画的マジックの面白さが堪能できる可笑しくも貴重な作品。 | [投票] |