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[コメント] 七人の侍(1954/日)

人は皆、侍であり、百姓であり、野武士である。
ろびんますく

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画のアクション映画としてのド迫力や七人の侍自身については既に多くの方が語られているので、ここではそれ以外について幾つか思ったことを述べたい。

●侍を利用する百姓、百姓を救済「してあげる」侍

映画の冒頭で、百姓は、自分達の村にいずれ野武士が作物を収奪しにやって来ることを知る。しかし、言うまでも無く、百姓自身には戦闘能力も経験も無い。あるのは僅かながらの作物のみ。即ち、ここで百姓が直面しているのは、「自衛」の問題である。戦闘能力を有しない者が自らの村(くに)を衛る手段とは何か?百姓が選んだのは、侍というアウトサイダーを自陣に常駐させ、彼らに外敵たる野武士を撃墜させるという途だ。これは、まさに戦後、もっと言えば、この映画公開当時(日米安保条約締結から2年)の日本がとった途である。

百姓は、侍を動かすために、自分達の保有する唯一の財たる三度の飯を提供する。しかし、理念・建前を重んじる侍が、実利だけでは動けないことをよく認識している百姓は、三度の飯という実利に加え、道義的理由を与える。つまり、危機的状況に追い込まれている自分達百姓を救うという崇高な目的を提供するのである。これにより、侍達の頭から「百姓に雇われている」という意識を消し、侍の面目を保ちつつ、自衛という本来の目的達成のために侍という強力なアウトサイダーを味方として動員することに成功する。冷戦下、大義名分を重んじ自らの「正義」を追求した米国と、その傘の下で驚異的な経済成長を遂げた日本との関係と比較してみると非常に興味深い。ちなみに、百姓と侍は、一つの目的のためにスムーズに協力することはあっても、(菊千代のケースを除けば)遂には心からお互いを信頼する事は無かった。日米関係もかなりの程度そうであったと言えるだろう。黒澤明がどこまで戦後の日本を意識(あるいは予期)しつつこの映画を作ったのかは定かではないが、そんなことを考えるのも面白い。

●武士道の精神〜その虚と実

武士道の精神には、献身、無私、忠誠心、無欲(地位や物への無関心)等があげられる。しかし、これらは崇高な精神であるが、あるいはそうであるが故に、漠然としており、解釈により、歪められる余地が生じてしまう。戦時中における日本がまさにそうであった。

七人の侍』における武士道の描かれ方の素晴らしさは、それが、崇高なものであると同時に、現実に適応されうるものとして描かれている点である。ここでは、何人かの侍の台詞に見られるように、隠れたり、逃げたりする行為は、武士道の精神に反する恥ずべきものとはされない。だから、この映画には、自爆テロを行う者はいないし、何ら戦略もないまま神風頼みで敵陣に特攻していく者もいない。これは、戦時中に国の政策により歪められたカギ括弧付きの「武士道の精神」に対する黒澤流の辛辣な批判であるとともに、本来の武士道の精神は、現実にも適応されうるものであり、それは戦後においても全く捨て去るべき類のものではないという彼の強い主張ともとれる。

●戻ってくる野武士

この映画において野武士の存在は最初から最後まで侍と百姓に重く圧し掛かるわけだが、彼ら自身の動きが描かれることはほとんど無い。このため、最後の闘いの場面でやられてもやられても繰り返し戻ってくる野武士を見て、初見時は、「野武士よ、きみはアホか?」と思ったものである。

しかし、野武士がしつこく同じ手に何度も引っかかり戻ってくるのにもそれなりの理由があるはずだ。簡単に言えば、彼らもまた、必死なのである。他にも襲撃できるような農村があれば、あれだけ手痛くやられたなら途中で引き返してもおかしくない。それをせずに、あえて戻ってくるということは、彼らにとっても、この農村が生き延びるための鍵だということであろう。彼らもこの農村を逃したら、もう後が無いのである。自らの村(くに)を衛るのに必死な百姓や、三度の飯を確保するのに必死な「腹減らした侍」と同様、野武士も必死なのだ。皆が必死な時、何が起こるか。ガチンコ対決である。それだからこそ、あのド迫力の演出があるのだろう。

他の黒澤作品にも通じることだが、彼の映画の登場人物は皆必死。本気で生きている。うまくは言えないが、それが、彼の作品が、世界の作品の中で群を抜いている点であり、また黒澤作品が世界中で本気で受け止められている理由だと思う。

●人が、侍であり、百姓であり、野武士でもあるということ

現在の日本、あるいは世界において、我々は、戦国時代よりも遥かに多くの役割を同時に演じている。人は、文脈により(国民として、市民として、上司として、部下として、親として、子供として、夫として、妻として、友人として等など)、侍であることを求められたり、百姓の立場に追いやられ、あるいはそうあることに利益を見出したり、隙あらば野武士にもなろうとしたりする。

だから、この映画は観るときの気分や年齢等によって、視点を変えることができるし、変わってしまうこともある。最後の勘兵衛(志村喬)の台詞が観る時々によってすっきりこないことがあるのはそのせいでもあるだろう。そして、新たな視点から鑑賞する度に、新たな発見ができる映画でもある。

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長くなったが、既に多くの方々がたくさんのことを語っている作品なのに、まだ何か言いたくなるということが、この映画の解釈の余地、深さを表しているのかもしれない。とにかく、こんな映画を何度も観られることに感謝である。

(評価:★5)

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