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★4悪魔の陽の下に(1987/仏)映画と宗教はじつは相性がいいのじゃないか。実在定かならぬ本質、仮象の狭間に動揺する実存、偶然が必然に転化する瞬間(まさに瞬間)の「奇跡」性への全託、というあり方に於いてそれは相似する。朝か夕かも判然としない青い光、一瞬だけ目をむく少年、場を切り裂く女の叫び。カットの変わる瞬間が不穏(不安定)な映画はいい。死ぬまでシネマ[投票(1)]
★4ぼくの伯父さん(1958/仏=伊)車達が整序並列して道路を進む。ユロ氏がアパートを、路地を、新宅を、工場をその覚束ない前傾姿勢で歩き回る。犬コロ達も子供達も一見自由だがしかし野放図ならず。それら企図された秩序とその振幅の中に生まれる動線のユーモア。尤もらしいだけの現実的SEを極力排することでSEはむしろ自律的な符牒と化し、その逆説でアクションはサイレント映画の体を為す。自己抹消とその「寅さん」的ダンディズム。動物園のクマ, 3819695, 寒山拾得, けにろん[投票(4)]
★3ハードコア(2015/露=米)空間から空間へ一挙に場面を展開する大胆さ。落下、疾走、また落下、そしてやっぱりまた疾走。懲りもせず繰り返すのに尽きない躍動。イベントにもアクションにもアイデア豊富。念動力のボスキャラの問答無用の説得力は何よりそのアクションのキレにこそ。ステージがロシアなのはそこが言語の通じぬ異国だから。スッ倒れてもすぐ立ちあがる「寡黙なチャップリン」の孤軍奮闘にボンクラ涙。DSCH, 赤い戦車[投票(2)]
★3火口のふたり(2019/日)「ふたり」である。“ふたりだけ”の映画なのにそこに逼塞を覚えないのは、演者の明朗もあろうが、むしろ「行間を読ませる」よりは行そのものを直截に読ませるような奇妙なダイアログの即物性にあるのではないか。下世話なまで社会的、時代的に阿る台詞も“ふたりだけ”の間に浮き彫りになることで「イメージ」としての即物性を帯びる。「火口」の小噺の一躍の飛躍も共に「イメージ」としての通底性あらばこそ。〔3.5〕3819695, けにろん[投票(2)]
★3新感染 ファイナル・エクスプレス(2016/韓国)「走る(人海ならぬ)人塊」と、その最突端としての「走る密室」のモチーフが、追走と脱落の一貫したアクション構造を支えきる。数ある難関を越えゆくに活劇的アイデアは不足なれど、さすがは韓国とも思わされる豪腕・駿足の体力勝負で意気さかんに中央突破に懸けゆく作劇はいっそ潔い。ためにラストに至る束の間のロングショットも不意にエモーショナルたる。勝ち。おーい粗茶, 3819695, ぽんしゅう[投票(3)]
★2ターン(2001/日)明日が来る。 [review]けにろん, kiona, ebi, くたーほか7 名[投票(7)]
★3散歩する侵略者(2017/日)言語の本質を前提した「概念奪取」という言語的段取にしかならないアトラクションは非映画的だが、こと「愛」という抽象を前にしたとき空転せざるを得ない認識がむしろ「愛」の観念的絶対性を際立たせてしまう、その逆説が作劇を意外に収斂させる。いわば言語の唯物論的抽象性が事象そのものの認識になりかわる。「愛」こそすべて(!)。DSCH, 寒山拾得, ぽんしゅう[投票(3)]
★5惑星ソラリス(1972/露)亡霊との対話、だがそれは対話なのだろうか。 [review]けにろん, Myrath, Orpheus, kionaほか9 名[投票(9)]
★4沈黙 -サイレンス-(2016/米)映画の沈黙が劇場の無音に聴こえてはならない。「沈黙」が″聴こえた″かと言えば、確かに″聴こえた″。「沈黙」とはそれじしんが神の声音だということ。鈴虫と茅蜩の音が交響する地獄めぐり。悪魔的な浅野忠信イッセー尾形。「ただの形だよ、形…」という言葉の逆説的な含蓄を、掌中のその「形」にあられもなく託してこその「映画」。世界の表裏の反転。ゑぎ, DSCH, Myrath, けにろんほか7 名[投票(7)]
★3台風家族(2019/日)冒頭のガクブル手つきの描写からして何故か最早作為が丸見えでダメかと思えばやはりダメで全篇空回りの体をなすが、台風襲来のスローモーション以後押し切りの強さで俄かに血が巡りはじめ、辛うじて活劇的に飛躍が飛躍の体をなしえた終幕は、情景が情景として命を宿し得た(ように見えた)。甲田まひるの顔に惚れたのだろう。それは映画的にただしい衝動。けにろん[投票(1)]
★3秒速5センチメートル(2007/日)「どんな切実な告白でも、聴手は何か滑稽を感ずるものである。滑稽を感じさせない告白とは人を食った告白に限る。人を食った告白なんぞ実生活では、何んの役にも立たぬとしても、芸術上では人を食った告白でなければ何んの役にも立たない。」 [review]DSCH, おーい粗茶, ペンクロフ[投票(3)]
★4青春の蹉跌(1974/日)"What to do next?"と言われてもね。ショーケンも、カオリさんも、ふみさんも、レオ氏もみんな若い。それがまたなんとも言えない。 [review]けにろん, 3WA.C, 山本美容室, sawa:38ほか7 名[投票(7)]
★3さよならくちびる(2019/日)心理的に去来する挿話の暗黙な了解が、現在の三人の「共犯関係」を担保する。当たり前にありふれた風や光が、ありふれた日常としての三人の旅程を暗黙に祝福する。やりとりされる言葉は核心に触れるようで触れえず、然しかわりに繰り返し嘯くように唄われる「さよなら」が三人の心をむしろ三人のもとへと送り返す。なんとも言い難い、けれどたしかに息衝く人と人の間(ま)の妙。〔3.5〕なつめ, ぽんしゅう, けにろん[投票(3)]
★3ウォーターボーイズ(2001/日)小麦色した男子軍団の肉体が踊る!!跳ねる!!オっ立ツ!!・・・そして女(子高生)たちは濡れた・・・地方高校生の『美の祭典』。(寄り切りで☆3つ。)けにろん, Yukke, くたー, てべすほか10 名[投票(10)]
★5さらば、わが愛 覇王別姫(1993/香港)いっそ、劇的に。 [review]週一本, , 鵜 白 舞, レディ・スターダストほか9 名[投票(9)]
★5勝手にしやがれ(1959/仏)たとえば「男の子」と「女の子」。問題は此の「と」であって、そこに息衝く断絶と接続の運動こそ映画の全てだと言うこと。圧倒的に輝く光の白や煙の揺蕩が世界の無償の豊かさそのものなら、その中で男女は断絶と接続のキワを生きる姿を喜劇と悲劇の狭間で演じる。視線と視線は映画の視線を介して互いに断絶し合い、また接続し合い、つまりは「愛」を演じる。瞬間ごとに生きている本来の映画、映画の本来。ゑぎ[投票(1)]
★3二階堂家物語(2018/日)父は横臥する。ひとり寝、ふたり寝。ことあるごとに彼は布団を敷き、或いは毛布を被り横臥していて、そして目覚める。家屋の外はいつも雨降で、その目覚めを包みこむように雨音が耳を侵す。娘とは親子でも男女でもあるような、縦でも横でもあるような微妙な関係であることが画面の中の立居振舞として印象づけられる。日本的母性の表象としての家屋→雨→横臥。その視線のオリエンタリズム。〔3.5〕 ぽんしゅう[投票(1)]
★3逆噴射家族(1984/日)家庭内殺し合い映画。親父が立て篭もるのはトイレ(^^;〔3.5〕 [review]死ぬまでシネマ, ピロちゃんきゅ〜, マッツァ, まなと[投票(4)]
★3ここは退屈迎えに来て(2018/日)移動する車内というのは映画的な空間かも知れない。どこからかどこかへと辿り着くまでのモラトリアムの時間そのものの謂いであるとも言える。それはあきらかにこの青春映画の主要モチーフとして展開されている。変わり映えのしない時間は変わり映えのしない空間=土地の風俗へと通訳され(10年前も後も何も変わらない街)、その中を走り続ける車からの視点は、虚無的なようでいて、しかし駆動的でもあり。ぽんしゅう[投票(1)]
★4レニングラード・カウボーイズ、モーゼに会う(1994/フィンランド)レニングラード・カウボーイズ・ゴー・ホーム! ヨーロッパ的な陰影と湿潤への親和性、そして「帰郷」と言うモチーフを見るにつけ、やはりカウリスマキはヨーロッパの、しかし越境の作家だと想う。メキシコ部やヨーロッパ部、果ては異邦人としてのアメリカ人まで“相乗り”する赤いバス。はりぼてリーゼントととんがり靴がなけなしな“アイデンティティ”として画面に刻印される。寒山拾得[投票(1)]