[コメント] 千と千尋の神隠し(2001/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
いつか夢で見たような懐かしい湯治場で繰り広げられる奇妙な風景が、とても良かった。なんといっても導入部で両親が豚になってしまったときの恐怖感。必死にがんばってきて、ハクからもらったおにぎりをくわえたときにこぼれ出る涙。あの世界で生きていくために汗を流して働くという条件。名前を失うことと、取り戻すことの重要さ。千尋の親しみやすい外見と素直な性格もあって、ぐいぐいとその異形の世界に引き込まれて、ドキドキハラハラと夢中になれた。
その風景は、古き日本のようでありながら、アジアや琉球の一風景のようでもある。田舎も都会も、森も海も、モザイク上に組み合わさった奇妙な風景は、初めてのようであり、どこかで体験した場所のようでもある。
腐れ神から多量の廃棄物が出てくるくだりは、直接人間を非難する言葉もなく淡々と映像でつないでいく。逆に、千尋がハクを救出したシーンでは、釜爺がその姿に似合わず「愛」を連発することで、わたしは笑いとともに気恥ずかしさを忘れ、千尋の勇気ある行動に素直に嬉しくなった。
この世にもどった千尋がどう変わったのか。ハクの復活と再会は…。エンド・クレジットでは何も語られぬままに終わるこの結末に、はじめは物足りなさを感じた。
しかし、その物足りなさが心の余韻となって、千尋はどうしたらハクと再会できるのかを想像すると同時に、身近な自然(神々)に対する自分の生き方について考えさせられた。
千尋とハクが現実世界で再会できるには、どんな世の中にしていったらよいのか。説教くさくならないよう、答えを語らずして、観客に問いかける終わり方を選んだのかもしれない。 エンド・クレジットが終了し、映画館が明るくなる前に一瞬画面いっぱいに映る水しぶきのストップモーションは、男の子と白龍のふたつの姿を持つハクが、以前この世にいたときの素顔(琥珀川)なのだろうか。
P.S. 千尋の声は13歳の柊瑠美が好演。この子はNHK朝の連続ドラマ「すずらん」の名子役。今回も俳優陣が声優を務めているが、以前の宮崎監督作品に比べると、人選も整ってきた感じがあり、違和感もぐっと少ない。湯婆婆の夏木マリもぴったりだった。わたしだったら黒柳徹子にお願いしたかもしれないが(笑)。
#追加レビュー「カオナシ」について(2001.7.23)
ちょっとよくわからないと評判のカオナシだが、現代人のダークで悲しい面を表しているような気がした。
「顔なし」とは自分のアイデンティティのない状態、行動するときに極力自分の顔を隠してしまうひと。旅の恥はかき捨て、というのも近い感覚か。自分の声でしゃべることができない。「ぁ…ぁ…」とつぶやくことだけで相手にわかってもらおうとする。
でも仮の声を手に入れると、ヒステリックに自分の要求をがなりたてる。金の力を自分の力と誤解して、ちやほやされて悦に入っている。「おれは客だっ!」とわがままし放題で、客としてのルールと遊び方をわきまえない。金品で人の心が買えないことがわからない。そして、自分の思い通りにならないことにキレて、なにもかもぶち壊そうとする。かの世界では、存在意義のわからない困ったカオナシだが、現実世界にはこういう人あふれていないだろうか?
ファミリー向けのアニメでこんなことを考えるのは不謹慎かもしれないが、普段はもっともらしいことをしているちょっと現実に疲れたオジサンが、ふとしたキッカケで招かれた東南アジアで「顔なし」となったとたん、金の力にまかせて酒池肉林の豪遊、「欲しい物はなんでもあげる」といって少女を欲しがる姿を連想してしまった。
これほど極端な例でなくても、私もふくめてだれもの心の中に「カオナシ」の一面は隠れているように思う。
河の神からもらった薬で、喰らったものを吐き出させ油屋の外に誘導した千尋は言った。「あの人はあそこに居るといけない」
そう、「顔なし」のひどいことをするオジサンも、「顔なし」でネット上で暴言を書き込んでいる人も、きっと我が家ではやさしい人なのだろう。
#追加レビュー「銭婆」について(2001.7.28)
ある映画の掲示板でno180924さんという方の秀逸な解釈と出会ったので、紹介したい。
これもまたよくわからないと評判の銭婆の存在だが、主要な脇役のようでいてその存在や人物像があまり語られていないと不満の声も多い。
銭婆の双子の妹である湯婆婆は、労働者の名前を奪って支配し油屋をとりしきっている魔女だが、彼女もまた自分の本来の名前を奪われてこの油屋で働かされているようでもある。「働きたいという者には、職を与える」という約束をさせられて。たしかに湯婆婆という名前は釜爺と同じくらい単純で安易だ。
おもしろいことに、湯婆婆と銭婆、仲の悪いこの姉妹の魔女が実は同一人物ではないかというのがno180924さんの解釈である。その真実を湯婆婆(銭婆)自身も気づかず、お互いに相手を別の人物と思い込んでいる。この作品で銭婆は描写不足の人物なのではなく、湯婆婆という姿ですでに語り尽くされていたのかもしれないのだ。
たしかに湯婆婆は、鳥の姿になってしょっちゅう油屋から姿を消す。そして、湯婆婆がいないときに銭婆が仮の姿で油屋に現れる。二人は双子として描かれているのにもかかわらず、けっして同時に出てこなかった。普通、映画で登場人物に双子がいる場合は、片方が死んでいるという設定でもないかぎり、同時に出るからこそ映像のインパクトが強くなる。お互いに嫌っているからといって、別々にしか登場させないのは、なんだかトリッキーだ。
判子にかけられた呪い(または虫)は、ある場面では銭婆の魔法と語られ、別の場面では湯婆婆の魔法だと語られた。それ以上の説明はなく、意味不明なまま観客は置いていかれる。これは最初、製作を急いだための説明不足と不満に感じたが、じつは隠された真実を解くための意図されたヒントだったのか?
坊に対して、湯婆婆は外の世界と隔絶して溺愛するが、銭婆は「あんた太りすぎ」といって旅をさせる(頭を坊の身代わりにするというお膳立てまでして)。いつまでも手元において可愛がりたいのも、わが子に成長してたくましくなって欲しいのも、どちらも親が子に対する矛盾した「共通の」願望である。
最後のテストの時、千尋が湯婆婆に対して、銭婆と同じように「おばあちゃん」と呼びかけるが、これは千尋がふたりが同一人物だと無意識に認識していたようにも思える。後半の千尋は生きる力を身につけると同時に、あの世界での白龍や魔女や豚たちの正体を見抜く力も徐々に身につけていったようだ(河の神の苦団子の副作用かも?)。
ところで、湯婆婆の名前は「湯」をとりしきっているからよいとして、銭婆の生活は「銭」とはあまり関係なさそうだ。じゃあなぜ、銭婆という名前なのか?? あれ?「銭」と「湯」をつなげて読むと… カポーン!
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