「四方田犬彦が選ぶ、「世界映画史の113本」」(バーボンボンバー)の映画ファンのコメント
鷂のコメント |
剣(1964/日) | 「正しい」「微笑」「勝つ」「負ける」などの語句がそのまま画面に刻印されているかの如き映画。わかったんだかわからなかったんだかよくわからないまま無理くり強引に「完」。 | [投票(1)] | |
極私的エロス・恋歌1974(1974/日) | 監督自らかつての愛人を追って沖縄へ。生臭いほど「女」を感じる極私的映画。 | [投票] | |
カスパー・ハウザーの謎(1974/独) | 「概念が無い」とは、こういうことなのか。鄙びたドイツの田園風景、そこに溢れる淡白な陽光はどこまでも美しく、それが遂にカスパー・ハウザーその人の心には達し得なかったことが、逆説的に透明な悲哀として残像する。言葉をあたえれば失われる他ない印象そのものをブルーノ・Sは体現。映画はアウラを刻印する。 | [投票] | |
めし(1951/日) | 最初に見て辛うじて記憶に残っていたのは、小さな階段の段差があるその小さな路地(袋小路)だった。小津にせよ溝口にせよ成瀬にせよ、その時代の映画にあって現在の映画には決定的にない映画的な舞台は、この「路地」ではないか。原節子の表情の豊かさ、島崎雪子のコケティッシュ、上原謙の憎めなさ。 | [投票(4)] | |
キューポラのある街(1962/日) | 吉永小百合が愛らしい。それだけで物語への回路が開かれる。 [review] | [投票(3)] | |
勝手にしやがれ(1959/仏) | たとえば「男の子」と「女の子」。問題は此の「と」であって、そこに息衝く断絶と接続の運動こそ映画の全てだと言うこと。圧倒的に輝く光の白や煙の揺蕩が世界の無償の豊かさそのものなら、その中で男女は断絶と接続のキワを生きる姿を喜劇と悲劇の狭間で演じる。視線と視線は映画の視線を介して互いに断絶し合い、また接続し合い、つまりは「愛」を演じる。瞬間ごとに生きている本来の映画、映画の本来。 | [投票(1)] | |
メトロポリス(1927/独) | 魂の無い木偶人形が叫ぶ、「地獄に堕ちる世界を見物するのよ!」。 | [投票(6)] | |
陽炎座(1981/日) | まさしく、目眩めく映画。 [review] | [投票(1)] | |
めまい(1958/米) | 眩惑の美、その虚無。 | [投票(1)] | |
道(1954/伊) | 人生を捻じ曲げる、取り返しのつかない一瞬。「やっちまった」と絶句。けれど、それでも彼の人生は続く(残酷なことに)。 | [投票(10)] | |
赤い砂漠(1964/仏=伊) | 目に映るもの全てがわたしを虫食み分裂させる。嗚呼、それにしたってモニカ・ビッティ。(ひたすら見よ。) [review] | [投票(5)] | |
櫻の園(1990/日) | むせかえるように、春。 | [投票(3)] | |
8 1/2(1963/伊) | 人生に退屈してしまってから、初めて人生がみえてくる。映画の闇の中、胚胎された死の上で束の間集う人間達。原点は人生の始まりの記憶。 | [投票(1)] | |
七人の侍(1954/日) | 天正十五年。 血と骨と肉、弓と刀と火縄銃、百姓、野武士、七人の侍。 [review] | [投票(5)] | |
秋刀魚の味(1962/日) | 杉村春子の登場と、その直後の怖ろしい表情。加東大介の敬礼と行進と軍艦マーチ。機械人形じみた岩下志麻。セリフの執拗なリフレイン。滑稽、それ故の残酷、あるいは不可解。これを狙ってやっているのだ(ろう)から、凄まじい。ついでに、最後に映し出されるアレ、これまたなぜそれがそこにあるのかが不可解。ある意味、完璧な(運命的)遺作。 | [投票(3)] | |
雨月物語(1953/日) | 極東の神秘の国、ジャポン。それは妖怪の棲む国だったのだ。 [review] | [投票(5)] |